大村益次郎 辞世の句です。

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幕末の人物

医者であり、蘭学者であり、軍艦を作り、軍政を改革して一軍を率い、最後は陸軍省の前身である兵部省の指揮者となりました。

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活躍を始めるまで

1824年、長州藩の大村で生まれました。大村益次郎の大村は、出生地である大村から来ており、名を改める以前には村田権六を名乗っていました。
父もまた医者であった益二郎は若い頃に医学を学び、蘭学や算術も学び、何名かの師についており、緒方洪庵の下では塾頭となっています。この精力的な学習が、後の人生を大きく変えていきます。
1850年に、父の要請で村に帰り村医となり、結婚しました。

軍艦建造から幕府の学者として

大村益次郎の最初の業績は、宇和島藩での西洋式軍艦の建造でした。開明的であった宇和島藩主伊達宗城の招聘に応じ、医者であり、蘭学者でありながら、突然軍艦を作れという指令をよくこなし、日本で最初の日本人だけで作った軍艦を完成させました。
その後は主君と共に江戸に赴き、益二郎は私塾を開いて蘭学を始め、兵学、医学を教えました。名声は幕府の知るところであり、幕府からも招聘されて講武所の教授となって、西洋の兵学書の翻訳と講義を行いました。講武所での働きは特筆すべきものであったようで、益二郎以前と以後ではレベルが違うとの評価を受けています。
この時期、桂小五郎と知り合って意気投合し、長州藩士となりました。

長州藩士として

1863年からは長州藩に居を移して活動しました。このころ長州藩では攘夷論が盛んで、攘夷の意志の乏しい幕府とは険悪な関係にあり、戦争も辞さない構えをとっておりました。長州藩における益二郎の仕事は多岐にわたり、まず何よりも西洋式の軍制改革を指導しましたし、語学力を必要とされる仕事を与えられたりもしました。
第一次長州征伐で長州藩が敗北すると、一時的に藩論が穏やかになりましたが、それに不満を持った高杉晋作が奇兵隊を組織して武力によって改革、藩論を倒幕に変えました。この際、奇兵隊の軍制改革を指導したのが益二郎でした。

第二次長州征伐の時には、後年の益二郎にも見られる基本的思想が現れています。戦闘のための兵員を武士だけでまかなうのではなく、町民を訓練して戦わせるべきとして、新しい部隊を編成しています。
新式武装も積極的に購入して迎えた第二次長州征伐では、武装の質で優位に立ち、優れた戦術でも圧倒するという具合で、大勝の下で停戦となりました。幕府が兵を引いた名目は将軍の死去でしたが、長州藩の勝利は誰の目にも明らかなことでした。

倒幕から明治まで

倒幕の流れは決定的になり、江戸が開城されました。しかし、江戸内部では彰義隊が勢力を保持して抵抗を続けています。その鎮圧を任されたのが益二郎でした。軍費を調達し、江戸の警察権を手中に収めて全権を預かり、十分な準備の下に開始された討伐戦はたった一日で終結しました。
彰義隊の勢力は小さくなく、海江田信義などは武力による早急な殲滅を否定しました。これを益二郎は一蹴し、「君は戦を知らぬ」とまで言ったそうです。もともと両者は仲が悪かったようですが、この件では特に腹を立てたといい、このことが後の暗殺に繋がったのではないかともいわれています。

暗殺

明治政府でも軍政について深く関与しましたが、大久保利通とは対立していました。益二郎の描く新しい国の軍政は、利通や西郷隆盛らとはずいぶん違った姿をしていたのです。結局のところ、武士という階級を廃止していく益二郎の路線は踏襲されましたが、そのために隆盛が西南戦争を起こすこととなります。
益二郎は官職を辞することにしましたが、桂小五郎の説得で兵部省の指揮を引き受けました。あるとき、軍事施設の視察のために京へ向かうことになりました。小五郎らによれば、京では信義らの扇動する暴徒が益二郎を狙っているということで、視察は引き留められたようですが、それを押して出発してしまいました。
旅館で会食中に八名の刺客に襲われ重傷を負い、手当てが遅れて命を落としました。享年四十六。従三位の位を贈られました。
辞世の句です。

君のため 捨つる命は 惜しからで ただ思わるる 国の行末

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