日本の夜明けを夢見た男・坂本龍馬の名言|時代を動かした自由人の生涯

幕末の人物

「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」—。この言葉ほど、坂本龍馬という男の生き様を見事に表現したものはないでしょう。土佐藩という枠組みに飽き足らず、二度も脱藩。武士という身分に固執せず、日本初の株式会社を設立。敵対し合う薩摩と長州の間に立ち、歴史的な軍事同盟を成立させる。彼の行動は、常に常識の枠外にあり、その真意は、彼自身にしか理解できないものでした。この記事では、幕末という時代の制約をものともせず、ただ日本の未来だけを見つめて駆け抜けた自由人・坂本龍馬の激烈な生涯と、その魂からほとばしる名言の数々を深く掘り下げていきます。

坂本龍馬とは:藩の枠を超えた「天下の浪人」

坂本龍馬は、幕末の志士の中でも極めて異色の存在でした。彼は、土佐藩の郷士という、武士の中でも比較的低い身分、しかも商家を本家とする家柄の出身です。この出自が、彼を藩という狭い世界に閉じ込めず、商人としての合理的精神と、武士としての理想を併せ持つ、独自の人間性を育みました。

土佐の郷士、世界への憧れ

1835年、土佐藩の城下町に生まれた龍馬は、裕福な家庭で育ちました。彼の視野を広げるきっかけとなったのが、母の実家であった「下田屋」の存在です。下田屋は、長崎や下関と交易があり、幼い龍馬はそこで世界地図や輸入品に触れ、外の世界への尽きない憧れを抱くようになります。この幼少期の体験が、後に日本という国の枠組みで物事を考える、彼のスケールの大きな思考の原点となりました。

土佐勤王党への参加と「脱藩」という選択

土佐藩に戻った朋友・武市半平太が「土佐勤王党」を結成すると、龍馬もこれに参加します。しかし、藩論を尊王攘夷へと統一しようとする武市の活動は、藩の重鎮・吉田東洋の公武合体路線と対立し、藩内での活動は次第に行き詰まりを見せます。小さな藩の内部抗争に時間を費やすよりも、もっと大きな視点で国のために動くべきだと考えた龍馬は、1862年、ついに「脱藩」を決意します。これは、主君を見捨てる大罪であり、捕まれば死罪は免れません。しかし、彼の情熱は、もはや土佐という藩の枠には収まりきらなかったのです。

勝海舟との出会い:一介の浪人から日本の航海士へ

「日本第一の人物」への弟子入り

行く当てのないまま江戸へ向かった龍馬は、長州藩の久坂玄瑞らと交流する中で、幕府の軍艦奉行である勝海舟の存在を知ります。当初、開国論者である勝を「幕府の犬」とみなし、斬り捨てるつもりで会いに行った龍馬でしたが、この出会いが彼の運命を決定的に変えます。勝から、世界の広さ、蒸気船や軍艦が飛び交う海の向こうの現実、そしてこれからの日本に必要なのは海軍であるという壮大なビジョンを説かれた龍馬は、その場で己の不明を恥じ、勝に弟子入りを懇願します。龍馬の姉・乙女に宛てた手紙には、こう記されています。
「此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられ候て…」
勝海舟という「達人」は、龍馬という荒削りな魂の中に、時代を動かす非凡な才能を見抜いたのです。

神戸海軍操練所と西郷隆盛との対面

勝の尽力で脱藩の罪を許された龍馬は、勝が設立した「神戸海軍操練所」で、塾頭として塾生の指導にあたります。ここで彼は、航海術や政治経済を学び、諸藩の志士たちとの人脈を築き上げました。この頃、勝の紹介で薩摩藩の西郷隆盛とも対面します。龍馬は西郷をこう評しました。
「われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る」
この出会いは、後に日本史を塗り替える、壮大な計画の第一歩となりました。

歴史を動かす大仕事:亀山社中と薩長同盟

勝海舟が失脚し、神戸海軍操練所が廃止されると、龍馬は再び後ろ盾を失います。しかし、彼は決して腐りませんでした。勝の紹介で薩摩藩の庇護下に入り、長崎で日本初の株式会社ともいわれる貿易結社「亀山社中」を設立。ここを拠点に、彼の生涯最大の大仕事が始まります。

犬猿の両藩を結ぶ奇策

当時、朝廷を動かす力を持つ二大雄藩、薩摩と長州は、禁門の変などを経て、互いに激しく憎しみ合う犬猿の仲でした。しかし、龍馬と、同じく土佐脱藩浪士である中岡慎太郎は、この両藩が手を結ばなければ、幕府を倒し、新しい国を創ることは不可能だと考えていました。彼らは、不可能と思われた薩長の和解に乗り出します。

武器貿易という名の潤滑油

説得は難航を極めましたが、龍馬は両藩の弱みに目をつけます。長州藩は、幕府からの経済制裁により、武器の輸入を禁じられていました。一方、薩摩藩は兵糧米が不足していました。そこで龍馬は、亀山社中を使い、「薩摩名義で最新の武器を購入し、それを長州に転売する。その見返りとして、長州は薩摩に米を送る」という策を提案します。これは、両藩に実利をもたらすことで、憎しみ合う感情の壁を突き崩そうという、商人出身の龍馬ならではの奇策でした。

寺田屋での会談と盟約の成立

この貿易を通じて関係が改善した両藩のトップ、長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛の会談が、1866年1月、ついに京都で実現します。しかし、両者の意地がぶつかり、交渉はまたも決裂寸前に。ここで龍馬が二人の間に立ち、「この同盟が成立しなければ、自分はどちらの味方にもならない。そうなれば、幕府を喜ばせるだけだ」と、中立の立場から両者を説得。ついに歴史的な「薩長同盟」が成立します。この時、用心深い桂は、薩摩を信用せず、龍馬に同盟の履行を保証する裏書を求めたほど、龍馬個人への信頼は絶大なものでした。

新国家の構想:大政奉還と海援隊

薩長同盟成立の直後、龍馬は京都・伏見の寺田屋で幕府の役人に襲撃され、重傷を負います(寺田屋事件)。しかし、彼は屈しませんでした。薩摩の船で療養しながら、彼は次の時代、新しい国家の姿を構想します。

船中八策と大政奉還

龍馬が目指したのは、薩長による武力倒幕ではありませんでした。彼は、内戦で国力を疲弊させることなく、平和裏に政権を移譲する方法を模索します。そして、船の上で考え出したとされるのが、新国家構想「船中八策」です。その第一条には「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ…」とあり、これが後に土佐藩主・山内容堂を通じて幕府に建白され、1867年10月、「大政奉還」として実現します。これにより、260年以上続いた江戸幕府は、戦うことなくその歴史に幕を下ろしました。

海援隊への発展

この頃、亀山社中は土佐藩の正式な外郭団体となり、「海援隊」へと発展。二度の脱藩の罪も完全に許され、龍馬は隊長に就任します。もはや彼は、一介の浪人ではなく、日本の未来を左右する重要人物となっていたのです。

近江屋の凶刃:夜明け前の死

大政奉還が成り、まさに新しい時代の夜明けが訪れようとしていた1867年11月15日。その日は、奇しくも龍馬33歳の誕生日でした。京都・近江屋の隠れ家で、盟友・中岡慎太郎と談合していたところを、何者かによって襲撃されます。龍馬はほぼ即死。日本の夜明けのために尽力した男は、その夜明けを見ることなく、その短い生涯を終えました。暗殺の犯人はいまだ特定されておらず、幕末最大のミステリーとして語り継がれています。

龍馬の魂:自由闊達な名言集

「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」
(他人の評価など気にするな。自分が本当に成すべきことは、自分自身が一番よく知っている。)

「丸くとも一かどあれや人心 あまりまろきは ころびやすきぞ」
(人と協調することは大切だが、自分の意見や信念という角を失ってはいけない。あまりに丸くなりすぎると、自分の足で立てなくなる。)

「恥といふことを打ち捨てて 世のことは成るべし」
(体面やプライドを捨てて、がむしゃらにならなければ、世の中の大きな事は成し遂げられない。)

「人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある」
(生きる道は一つではない。固定観念に縛られず、自由に自分の道を探せばよい。)

「何の志ざしもなき所ニ ぐずぐずして日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり」
(志もなく、ただ無為に日々を過ごすのは、本当の愚か者だ。)

「男子は生あるかぎり、理想をもち、 理想に一歩でも近づくべく坂をのぼるべきである」
(男として生まれたからには、常に理想を掲げ、それに近づく努力を続けるべきだ。)

「事は十中八九まで自らこれを行い 残り一、二を他に譲りて功をなさむべし」
(物事の大部分は自分でやり遂げ、最後の美味しいところだけを人に譲ることで、大きな功績を成し遂げられる。人を動かすリーダーとしての極意。)

「この世に生まれたからには、己の命を使い切らんといかん。 使い切って生涯を終えるがじゃ」
(せっかくこの世に生まれたのだから、自分の命を燃焼し尽くして死ぬべきだ。)

まとめ:永遠の青年、坂本龍馬が遺したもの

坂本龍馬は、特定の組織に属さず、藩という垣根を軽々と飛び越え、ただ「日本」という大きな視点から物事を考え続けた、稀有な人物でした。彼は、古い秩序を壊す「破壊者」であると同時に、新しい国家の姿を構想した「創造者」でもありました。彼の最大の功績は、薩長同盟や大政奉還といった具体的な事業だけではなく、身分や立場にとらわれず、誰もが志一つで国を動かすことができると、その生き様をもって示したことかもしれません。彼の短い生涯は、まるで青春そのもののような輝きと、無限の可能性に満ちています。だからこそ、坂本龍馬は時代を超えて、今もなお多くの人々の心を惹きつけてやまないのでしょう。

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