坂本龍馬といえば幕末を代表する武士の一人です。その活躍はもちろんのこと、いかにも侍といった感じの風貌に魅力を感じている人も多いのではないでしょうか。
「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」
坂本龍馬は1835年、土佐に生まれます。坂本家は質屋、酒造業、呉服屋を営む才谷屋の分家で龍馬自身も非常に裕福な家庭で育ちました。その龍馬の今後の人生にもっとも大きな影響を与えたのは、育ての母である伊与の前夫の実家、下田屋と言われています。龍馬は幼少のころから姉と一緒に下田屋へ遊びに行き、長崎や下関からの珍しい土産話や世界地図などの数々の輸入品などを見て外の世界への憧れを抱きます。1854年には道場へ入門し、剣術を学びます。
「丸くとも一かどあれや人心 あまりまろきは ころびやすきぞ」
五年間の修行の後、江戸へ遊学するのですが、遊学中の1853年にペリーが来航すると龍馬たちも臨時招集され品川の土佐藩下屋敷の警備を任せられます。12月には佐久間象山の私塾に入塾すると、砲術や漢学、蘭学を学びます。
勝海舟との出会い
その頃土佐では尊王攘夷論が主流になっていました。中でも朋友、武市半平朗は武者修行という名目で佐貫、備前、美作、備中、備後、安芸などを巡り、時勢を視察していました。61年には江戸へ入り、水戸、聴取、薩摩などの武士と交流を持ち、土佐の勤皇運動が遅れていることを確信して帰藩します。
「恥といふことを打ち捨てて 世のことは成るべし」
土佐へ戻ると同志を募り、土佐勤王党を結成。龍馬は九番目、国元では筆頭として加盟しました。当時藩政改革を行っていた吉田東洋は公武合体を主張したため、勤王党は藩内では支持を得られませんでした。そんな情勢にもめげずに勤王党は活動を続けます。諸藩の動向に注目し、四国や九州へ何度も調査隊を派遣していました。
62年には長州の久坂玄瑞と談合。その頃、薩摩では島津久光が京都へ上洛するとの情報が流れます。この情報に対して、完全に出遅れていると感じた勤王党の藩士が脱藩して京都へ向かう出来事が起こりました。脱藩は勤王党の早とちりとなってしまいます。
島津久光は公武合体のための政策をするために京都へ出向いたわけではなく藩政改革のために京都へ出向いていただけでした。そんなことに気づくこともなく、龍馬も3月に脱藩します。
「義理などは夢にも思ふことなかれ 身をしばらるるものなり」
最終的には京都へ行く理由がなくなってしまい、行く当てがなくなった龍馬は江戸へと向かい、久坂玄瑞と高杉晋作らと交流を持ちます。
さらに元福井藩主松平春獄から、勝海舟を紹介されます。勝海舟は開国論者であり、尊王攘夷論の敵だと認識していた龍馬は、勝を切りつけるつもりで会いに行ったのですが、逆に勝から世界情勢と海軍の必要性などを聞かされ、その場で勝に弟子入りしてしまいます。
「人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある」
勝は土佐藩主の山内容堂に取次ぎ、龍馬の脱藩の罪を免除してもらい、さらに龍馬を勝の私塾に入門させます。その後龍馬は海軍総連書設立のためへ移送する日々が続きます。
「此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられ候て、先きゃくぶんのようなものになり すこしエヘンにかおしてひそかにおり申候。達人の見るまなこはおそろしきものとや、つれづれにもこれあり。猶エヘンエヘン、かしこ」
1863年に土佐藩の情勢が一変してしまいます。武市のような下級武士の身分で藩論を主張していることに不満を持った藩主山内容堂は勤王党の解体にかかります。吉田東洋の暗殺にかかわった人物たちを切腹させます。63年には武市が暗殺されて勤王党は壊滅状態になってしまいます。
「何の志ざしもなき所ニ ぐずぐずして日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり」
土佐藩の追求をかわして京都薩摩藩邸に身を寄せていても、決して腐らず次の策を練っていました。
池田屋事件
京都でも情勢が大きく変わります。八月十八日の政変で、長州の討幕派勢力が京都から追放され、薩摩や会津などの佐幕派(幕府と朝廷での公武合体を目指す勢力)が実権を握ります。翌年には池田屋事件が発生。京都に潜んでいた尊王攘夷派の志士たちが次々と処罰されていきます。そんなさなか、神戸にいた龍馬は、10月に神戸海軍塾塾頭に任命されます。
途中土佐藩に帰国延期申請を出すも、土佐藩はこれを却下します。すると龍馬はまたもや脱藩してしまいます。引き続き龍馬は神戸海軍塾で働き続けます。11月には勝つから西郷隆盛を紹介され、様々な意見を交換し合います。
「われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠(広々としてとりとめのない)としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る」
薩長同盟
63年11月、勝が老中首座、阿部正外の不興を買ってしまい、神戸海軍総連書は廃止されてしまいます。勝は脱藩した龍馬が行き場をなくすことを心配して、龍馬を薩摩へと預けます。薩摩は龍馬の航海術の知識を欲しており、龍馬が来てくれるとなれば喜んでかくまいます。1865年には龍馬らに出資して亀山社中を設立。亀山社中とは輸送会社のようなもので、のちに薩長和解にも一役買います。
長州では禁門の変などもあり、完全に幕府や薩摩と対立を深めていきます。しかし。土佐脱藩師である中岡慎太郎は薩長の両雄藩による倒幕が必要と主張し、龍馬に協力してもらい、桂小五郎を説得します。なんとか桂を説得すると5月に下関で西郷と会談することを承諾させましたが、西郷は現れませんでした。西郷は大久保利通から緊急の書簡を受け取り、急いで京都へと向かっていました。これには桂も激怒し、薩長の和解は不可能かと思えました。
「男子は生あるかぎり、理想をもち、 理想に一歩でも近づくべく坂をのぼるべきである」
ここで龍馬と中岡はあきらめません。両藩の情勢を利用します。当時長州藩は度重なる攘夷運動の失敗により、幕府側から警戒されていました。そのため、幕府は諸外国に長州に武器弾薬類の販売をしないよう通達しています。
長州は武器を得る手段を絶たれていました。そこで、龍馬は薩摩名義で購入した武器を長州へ転売し、長州が武器を調達するルートを確保します。この際武器の輸送は亀山社中が担当。薩摩にとっても土佐にとっても実りのある貿易となりました。さらに薩摩側には当時不足していた米を長州から配送することで、薩摩側にも利益があるように配慮しました。こうして、両藩は次第に関係を回復させていきます。
寺田屋事件
1866年1月。ようやく桂と西郷の談合が実現しました。しかし、二人だけの話し合いは難航してしまいます。桂はこれ以上薩摩へ頭を下げること藩の威厳に関わると主張。そこで翌日には龍馬が立会人となって話し合いが行われ、ようやく薩長同盟が成立します。同盟が成立したあとも桂は西郷および薩摩のことを全く信用せず、龍馬に盟約履行の裏書を要求したほどです。用心深い桂も龍馬のことは信用していました。龍馬は伏見寺田屋にて、同盟成立の祝杯を挙げていました。しかし、そこに伏見奉行が龍馬を捕縛しにきました。間一髪で一命をとりとめることができましたが、手を負傷してしまいます。
近江屋事件
14代将軍徳川家茂は21歳の若さで亡くなってしまうと、将軍貢献初句であった一橋慶喜が15代将軍になることが望まれていました。しかし、慶喜はこれを拒否。龍馬は政権法官策を解き、松平春獄へと伝えます。その頃土佐藩では後藤象二郎らが長崎での武器購入を盛んに行っていました。龍馬の航海と通商の知識、薩摩との関係に目をつけた後藤は龍馬と接触を図ります。後藤は龍馬の脱藩を免除し、亀山車中を土佐の外郭団体とし、海援隊へ改称します。龍馬が後藤に呼び戻されている間に京都では中岡慎太郎の仲介により薩土倒幕の密約が結ばれていました。そして10月15日、大政奉還が成立します。これにより、龍馬たちの倒幕運動は幕を閉じます。
「事は十中八九まで自らこれを行い 残り一、二を他に譲りて功をなさむべし」
大政奉還を見届けたその1カ月後の11月15日、近江屋で中岡慎太郎と談合をしていたところを暗殺されてしまいます。
「私ももしも死ななんだりや、四五年のうちにハかへるかも、梅雨の命ハはかられず」
新たな夜明けのために尽力していた龍馬でしたが、夜明けからわずか1カ月の命となってしまいました。
「この世に生まれたからには、己の命を使い切らんといかん。 使い切って生涯を終えるがじゃ」
- ジュール・ブリュネ
- 伊庭八郎の名言集です。
- 徳川斉昭の名言です。
- 藤田東湖の名言集です。
- 岩倉具視の名言集です。
- 河井継之助の名言集です。
- 横井小楠の名言集です。
- 松平春嶽の名言です。
- 大村益次郎 辞世の句です。
- 武市半平太 辞世の句です。
- 山内容堂の名言集です。
- 島津斉彬の名言集です。
- 斎藤一の紹介です。
- 土方歳三の名言です。
- 沖田総司の名言です。
- 近藤勇の名言です。
- 岩崎弥太郎の名言集です。
- 勝海舟の名言集です。
- 桂小五郎(木戸孝允)の名言集です。
- 大久保利通の名言集です。
- 西郷隆盛の名言集です。
- 坂本龍馬の名言集です。
- 伊藤博文の名言集です。
- 楫取素彦の名言です。
- 久坂玄瑞の名言集です。
- 高杉晋作の名言集です。
- 井伊直弼の名言です。
- 吉田松陰の名言集です。
コメント