松陰が後を託した男・楫取素彦の名言|誠を貫いた教育者、初代群馬県令の生涯

幕末の人物

幕末の動乱期、歴史の表舞台で活躍したのは、高杉晋作や久坂玄瑞といった燃えるような情熱を持つ若き志士たちでした。しかし、その輝かしい革命の物語の陰には、彼らを支え、その遺志を受け継ぎ、新しい時代を実務と誠意で築き上げた、静かなる巨人がいました。その名は、楫取素彦(かとり もとひこ)。吉田松陰の義弟にして無二の親友、そして松陰亡き後の松下村塾を託された男。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公・文の夫としても知られる彼の生涯は、革命家としてではなく、教育者、そして優れた行政官として、日本の近代化に大きく貢献した、もう一つの維新の物語です。

楫取素彦とは:「至誠」を体現した穏やかなる教育者

楫取素彦の生涯を貫くキーワードは、吉田松陰が彼に遺した「至誠」という言葉に集約されます。彼は、派手な功績を誇ることなく、奢らず、常に誠実な姿勢で人々と向き合い、事を成し遂げていきました。革命の時代にあって、彼は過激な思想に染まることなく、常に穏健で道理を重んじる学者肌の人物でした。しかし、その内には、国を憂い、人々を導こうとする、静かで、しかし揺るぎない情熱の炎が燃え続けていました。彼の功績は、戦場で立てた武功ではなく、教室で、そして県庁で、人々の未来のために流した汗によって築かれたものだったのです。

藩校・明倫館の俊英

1829年、長州藩の藩医の次男として生まれた彼は、12歳で藩校明倫館の儒者・小田村家の養子となり、エリート教育を受けます。江戸に遊学した際には、安積艮斎や佐藤一斉といった、当時の日本を代表する大学者たちに師事。この時、同じく江戸に遊学していた同郷の吉田松陰と運命的な出会いを果たし、生涯にわたる深い友情を結びます。やがて、松陰の妹である寿(ひさ)と結婚。これにより、彼は松陰にとって、単なる友人ではなく、義理の兄という、家族同様の存在となったのです。

松下村塾の盟主:革命の裏舞台を支える

吉田松陰は、楫取(当時は小田村素彦)の穏やかで誠実な人柄を深く信頼し、自らが主宰する松下村塾の未来を彼に託していました。

「松下村塾の盟主は村君」

1858年、黒船への密航に失敗し、投獄されることになった松陰は、高杉晋作や久坂玄瑞といった塾生たちに、「松下村塾の盟主は村君(素彦のこと)である」と言い残しました。これは、過激な行動に走りがちな若い塾生たちを、素彦の穏健な人柄でまとめ、導いてほしいという、松陰の切なる願いでした。彼は、素彦こそが、自らの思想の真の後継者であると考えていたのです。

投獄と高杉晋作による救出

しかし、時代の荒波は、穏健な素彦をも巻き込みます。長州藩内で、幕府に恭順する保守派(俗論派)が実権を握ると、素彦は危険視され、無実の罪で投獄されてしまいます。死をも覚悟した彼でしたが、高杉晋作がクーデター(功山寺挙兵)を起こして俗論派を打倒したことにより、九死に一生を得ます。この経験は、彼に革命の厳しさと、志士たちの覚悟を痛感させる出来事となりました。

薩長同盟の構想を長州へ

出獄後、彼は藩命を受け、京都を追われて太宰府に滞在していた三条実美ら五人の公卿を訪ねます。その地で、彼は坂本龍馬と出会いました。龍馬が熱っぽく語る「薩長同盟」の構想に感銘を受けた素彦は、その重要なアイデアを長州藩に持ち帰り、後の同盟締結への道を拓く、陰の功労者の一人となったのです。

初代群馬県令:近代群馬の父として

明治維新後、楫取はその手腕を、新しい国家の建設、特に地方行政の分野で発揮します。1876年、彼は新設された群馬県の初代県令(現在の知事)に就任。ここから、彼の行政官としての、輝かしい第二の人生が始まります。

殖産興業と教育の振興

当時の群馬は、まだ近代化からほど遠い状態でした。楫取は、まず県の産業を育てる「殖産興業」に心血を注ぎます。特に、生糸の品質向上と生産拡大に尽力し、官営の富岡製糸場と連携しながら、群馬を日本一の蚕糸県へと育て上げました。また、彼は教育者としての信念に基づき、学校教育の普及にも力を入れ、近代群馬の礎を築きました。

「慈父母」と慕われて

彼は、決して権威を振りかざす役人ではありませんでした。常に民衆の目線に立ち、その声に耳を傾け、県内をくまなく巡っては、人々と親しく対話しました。その誠実で温かい人柄は、多くの県民から深く敬愛され、やがて彼は「慈父母(じふぼ)」、すなわち慈悲深い父であり母である、とまで呼ばれるようになったのです。

晩年:二人の妻と志士たちの記憶

公務に尽力する一方、彼の私生活は、亡き松陰や志士たちの記憶と共にありました。

寿の死と文との再婚

1881年、長年連れ添った妻・寿が病のため、43歳で亡くなります。その2年後、楫取は、亡き寿の妹であり、吉田松陰の末妹、そして禁門の変で自刃した久坂玄瑞の未亡人であった文(ふみ)と再婚します。これは、松陰、久坂という、維新に散った二人の英雄の家族を守り、その遺志を受け継いでいくという、楫取の固い決意の表れでした。

『涙袖帖』:記憶の守り人

再婚の際、文は、夫・久坂玄瑞が彼女に宛てた20通以上の手紙を持参しました。楫取は、この手紙を丁寧に装丁し、『涙袖帖(るいしゅうちょう)』、すなわち「涙で袖を濡らしながら読んだ手紙」という名をつけ、終生大切に保管しました。この逸話は、彼の繊細で、情愛深い人柄を何よりも雄弁に物語っています。彼は、歴史の記憶の、誠実な守り人でもあったのです。

楫取素彦の名言と哲学

松陰から託された言葉

「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」
(現代語訳:この上ない誠意を尽くして対すれば、心を動かされない者はいない。)
これは、中国の古典『孟子』の一節で、吉田松陰が獄中から楫取に贈った言葉です。楫取はこの言葉を生涯の座右の銘としました。彼の人生は、まさにこの「至誠」の精神を、教育者として、行政官として、そして一人の人間として、実践し続けたものでした。

晩年の和歌

「深草のうちに埋もれし石文の世にめづらるる時は来にけり」
(現代語訳:深い草の中に埋もれていた石碑が、時を経て、世の人々からめでられ、注目される時がやってきたのだなあ。)
これは、晩年に故郷の有志から、自らの功績を称える石碑を贈られた際に返した礼状に添えられた和歌です。自らを「埋もれた石」と称し、ようやく評価される時が来た、と静かに詠んだこの歌には、自らの功績を誇ることなく、常に謙虚であり続けた彼の人柄が、見事に表れています。

まとめ:「至誠」に生きた静かなる巨人

楫取素彦の生涯は、幕末の志士たちのような劇的な輝きには満ちていないかもしれません。しかし、彼の生き様は、私たちに別の形の偉大さを教えてくれます。国を創るのは、古い時代を破壊する革命家だけではない。新しい時代を、誠実な努力で一歩一歩、着実に築き上げていく行政官や教育者もまた、偉大な創造者なのだと。楫取素彦は、吉田松陰から託された「至誠」という言葉を、その長い生涯を通じて見事に体現してみせた、静かなる巨人でした。
この記事を読んでいただきありがとうございました。

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