楫取素彦の名言です。

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幕末の人物

楫取素彦は、2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で井上真央さん演じる主人公・文の夫となる人物です。
楫取素彦は、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として誕生しました。
兄の松島剛蔵は、 甲子殉難十一烈士のうちの一人です。勝海舟とともに長崎伝習所で航海術を学び、高杉晋作、久坂玄瑞らと御楯隊を結成しました。英国公使館焼き討ち事件、下関戦争で活躍しましたが 長州藩の俗論派(幕府派)によって処刑されます。
弟の小倉健作は、楫取素彦とともに江戸で吉田松陰と出会い、松陰の東北出奔脱藩事件や下田密航未遂事件で活躍した人物です。 明治維新後は教育者となり、群馬県師範学校、太政官修史館など務めました。
素彦は、十二歳で藩校明倫館の儒者・小田村吉平の養子となります。そして十六歳で明倫館に入りました。三年後に養父が没し、小田村家督を継ぎます。
二十二歳で江戸藩邸にて大番役を勤め、江戸藩邸の長州藩が建設した藩校の有備館で儒学者である安積艮斎と佐藤一斉から教えを受けます。
安積艮斎の弟子に松蔭、岩崎弥太郎、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎。
佐藤一斉の弟子に山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂がいます。
二人の師は朱子学だけでなく、陽明学を受け入れ学派に拘りを持ちませんでした。
翌年、江戸に遊学していた同郷の吉田松陰と知り合い、松陰の妹である寿(ひさ)と結婚します。 寿は松蔭の実家である杉家の次女に当たります。
1857年 明倫館都講役兼助講になります。
1858年 吉田松陰が黒船密航の企てに失敗して、野山獄へ投獄されるときに「松下村塾の盟主は村君(素彦)」、翌年の江戸送りの際には「い堂先生(素彦)を尊奉するのみ」と塾生たちに言い残しました。
素彦には、「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり( 至誠を尽くせば、心を動かさない者はいない)」(『孟子』)と遺します。
松蔭が亡くなった年、儒官から抜擢され藩主の側役集団である手廻り組に加わり藩主に学問を講じる侍講を務めました。
1860年 明倫館、三田尻越氏塾に次ぐ学問所で現在の山口大学の礎となった山口講習堂、三田尻越氏塾で講じました。
1864年 藩の恭順派という理由で野山獄に投ぜられます。素彦は死を覚悟して寿に遺言を残しましたが、高杉晋作の功山寺挙兵によって命は助かり出獄しました。公武合体派に敗れた尊王攘夷派である三条実美ら五名の公卿が、再挙を図るため京都を離れ、大宰府にいました。素彦は、藩命で彼らを訪問し、そこで坂本龍馬と出会います。 龍馬の薩長同盟の構想を、長州藩に持ち帰りました。
1867年 藩命により名を楫取素彦に改名。
1872年 足柄県参事、二年後には熊谷県権令に就任。
1876年 熊谷県改変により新設された群馬県令となりました。県令とは廃藩置県により県に置かれた長官の呼び名です。今で言うと知事を指します。群馬県令となってからは、殖産興業に尽力し、生糸産業を実現させるなど、近代群馬の礎を築いて多くの人たちに慕われました。
1881年 寿は病のため東京で療養していましたが、四十三歳で亡くなります。
1883年 吉田松陰の妹で杉家、四女の文と再婚。文は四十一歳、素彦は五十五歳でした。 文は美和子と改名します。文は十五歳で松陰の勧めにより久坂玄瑞に嫁いでいます。久坂は松陰の死後、その遺志を受け継いで尊王攘夷派のリーダーとして活躍していましたが、長州藩が起こした禁門の変に敗れ自刃したため、文と久坂の結婚生活は七年で終わりました。
文は久坂が文に宛てた手紙20通(21通とする説も)を持参しました。素彦は、この手紙を装丁し、『涙袖帖』と箱書きをして大切に保管しました。
1884年元老院議官となって群馬を去ります。その後、高等法院陪席裁判官を務め、男爵の位を授けられました。貴族院議員に当選すると貞宮多喜子内親王(明治天皇第10皇女)御養育主任を務めました。
旧知の当時の群馬県吉井町長から拓本と紹介状を受けた 素彦は、礼状の末に
「深草のうちに埋もれし石文の世に目つらるる時は気にけり」と詠みました。
1912年 山口県の三田尻で死去。八十四歳でした。山口県防府市桑山の大楽寺に文とともに眠っています。楫取素彦の功徳碑と伝記に素彦は県民に慈父母のように慕われていたとあります。素彦は平和を好む誠実な学者肌でした。奢らず、自らの功績を誇らず、陰で人々を諭し、導いていく、吉田松陰が楫取に送った、「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」という言葉を体現した人物ではないでしょうか。

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