水野忠邦 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

奇抜な方法で老中首座となりました。天保の改革を実施しようとしましたが、過激な内容に反対が強く、断念せざるを得ませんでした。

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老中になるまで

1794年、肥前唐津藩で生まれました。父水野忠光には長子がおりましたが早世していたため、忠邦が世継ぎとなります。
野心家だった忠邦は幕府での権力獲得を目指し、賄賂を駆使して幕府奏者番の地位を獲得しました。しかし、この程度の地位では満足しなかった忠邦は、さらなる出世のための工作を続けます。金には糸目をつけなかった忠邦でしたが、それ以上の地位は難しいことが分かりました。
唐津藩には長崎の防衛任務が与えられており、藩主が現地を離れすぎるのは都合が悪く、そのため江戸に出仕しなければならない重役には付かせられなかったのです。
そこで忠邦は、国替えを申し出ます。二十五万石の唐津藩から、十五万石の遠江、浜松藩への転封を希望しました。このような過激な希望は藩内でも反対は強く、家老が命を以て諫めようとまでしています。
忠邦の希望は容れられ、浜松藩主となり、寺社奉行にも任じられました。忠邦の出世はとまらず、大坂城代、京都所司代と続けて任じられ、ついには老中となって将軍の世継ぎ、徳川家慶の補佐まで任されるに至ったのです。

天保の改革

老中首座を務めていた水野忠成が没すると、その数年後に忠邦が首座を務めるようになりました。
忠邦は幕府の経済状況を悲観し、これを是正しなければならないという使命感を持っていたように思われます。老中となるまでの経緯は清廉潔白とは言えませんし、地位を得てからは今度は賄賂を受け取る側になっていることから、高潔な人物ではないのかも知れません。
しかし、天保の改革は一貫して幕府の財政事情を改善するための方策を講じていますので、幕府の力を懐に入れようとしていたわけではないように思われます。幕府が儲かれば自分も儲かる、という考えだった可能性は否定できませんが。
天保の改革の主な内容は、贅沢の禁止と、貧乏人の救済を目指したものでした。将軍家斉の時代、幕府は贅沢をきわめて散財し、そのために幕府の財政事情が悪化していました。だからその無駄遣いをただし、緊縮財政によって経営状況の改善を目指したのです。
そしてその贅沢禁止令は民衆にもおよび、民間で行われていた講談・漫才などの見世物小屋は閉鎖され、歌舞伎なども禁止されました。
貨幣経済が発達したことで農業よりも商業の方が実入りのいい仕事となり、農村からは都市部への人口流入が増えていました。そのため、忠邦は人返し令を発して農民を村へと送還し、農業に従事させようとしました。
金貸しの金利が債務者を苦しめているため、金利を引き下げさせ、借金にあえぐ民衆の保護も図りました。しかし、金貸しというのは金利で儲けるために金貸しをするのであり、貸しても儲からないとなれば貸さなくなります。そのため、貸し渋りが広まり、借りたくても借りられないという問題が発生しました。
さらには貨幣の改鋳を行い、悪貨を量産しました。これで財産が増えると考えたのかも知れませんが、現代ではよく知られているように、このやり方ではインフレを引き起こします。それまでも幕府は貨幣を増やしてはいますが、忠邦は勢いよく増やしすぎました。
このように天保の改革は、目指すものは正しかったのですが、やり方には多くの問題を抱えていました。そしてこの改革にとどめを刺したのが、改革の中心であった上知令です。
これは、江戸と大坂の周辺領主に対する大転封計画です。幕府の直轄領は日本全国各地に分散しており、統治効率を引き下げていました。そのため、幕府の中心地周辺を直轄領にし、各地の直轄領を代わりに与えようというのです。
しかしこれには大きな反対があり、将軍家慶からも否定されたことで改革は頓挫。忠邦は失脚しました。

晩年

一度は失脚した忠邦でしたが、後釜に座った土井利位の失態により、再び老中首座に返り咲きます。しかし、その後の活動は鈍く、木偶の坊とすら評されるほどでした。
それでも自分を失脚させた人々への復讐だけは熱心に果たしたようですが、天保の改革における不正が発覚し、責を問われて隠居、謹慎が命じられました。
その後山形藩へと追いやられ、1851年に死去。墓所は水野氏の菩提寺のある常陸国、結城に弔われました。

水野忠邦 辞世の句です。

くみてこそ むかしもしのへ ゆく川の
かへらぬ水に うかふ月かけ

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