別所長治 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

播磨東部の有力な勢力で、織田信長に臣従していましたが、不満を募らせたことで謀反を起こしました。およそ二年に及ぶ籠城戦の末、切腹して果てました。

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誕生から家督相続まで

1558年頃の生まれとされています。父は別所安治。
別所氏は東播磨で勢力を伸ばした一族で、赤松氏の血筋に連なっていました。播磨の守護は赤松氏でしたが、別所氏はこの地域の守護代を任されていました。
力を付けた浦上氏が主家である赤松氏に背いたのと同様、別所氏も赤松氏の支配から脱し、独立した勢力として播磨での勢力拡張を始めました。長治の祖父、就治の時代のことです。
浦上氏と戦ったり、尼子氏の攻撃を退けたり、三好氏と事を構えたりと忙しくしてしましたが、安治の時代には織田信長に臣従することで、勢力を保持することに成功しました。
1570年、安治が病死したことで、まだ十代前半の長治が当主となりました。

織田家臣としての別所氏

別所氏は1578年になって信長を裏切り、毛利氏に属することとなりますが、それまでは織田氏の武将として功を上げていました。
父安治の代から三好氏と戦い、足利義昭が襲撃された際にも援兵を送っています。長治は信長の紀州征伐に従軍し、共に戦いました。
当主になったばかりの長治はまだ幼かったので、安治の弟たちが後見を務めたのですが、意見は異なっていました。吉親は信長のことが嫌いだったようですが、その弟重宗は新織田派でした。織田氏との外交役は重宗が務めておりましたので、両氏の間で問題は発生していませんでしたが、羽柴秀吉が毛利氏との戦いを始める頃になって事情が変わり始めてしまいます。

謀反と籠城

長治が信長から離反した理由はいくつか挙げられています。名門赤松氏の血筋に連なる家柄として、成り上がり者の秀吉の指揮下に置かれることに不満があったともいわれています。また、縁戚であった波多野氏に同調したとか、毛利氏と友好関係があったなどとされています。
別所氏が三木城に籠城するに当たって、重宗は浪人する道を選びました。このことが、別所氏の家柄を守ることとなります。

播磨国内に多かった浄土真宗の門徒も加えて、七千五百の戦力で三木城に籠もりましたが、籠城するには兵士の数が負担になりました。どうしても、兵糧の確保が課題となります。
攻め手の総大将である秀吉もそれを的確に見破って、補給線の遮断を実行します。しかし、毛利氏の大軍が播磨に居座ったため、三木城の補給線が完全に断ち切られることはありませんでした。しかし、毛利氏も積極的な攻撃を仕掛けられる状況ではなく、三木城を取り巻くように監視砦が築かれるにつれて、次第に補給が難しくなっていきました。

毛利氏や別所氏にとって幸いだったのは、織田方に属していた小寺政職や荒木村重などが相次いで毛利方に付き、謀反を起こしたことです。このおかげで新しい補給線を確保することができ、三木城の兵糧問題は緩和されました。
しかしながらそれでも十分とは言えなかったため、別所氏と毛利氏の共同作戦として兵糧補給を計画しますが、多大な損害を出して失敗に終わります。
そして決定的となったのが、宇喜多直家の離反でした。それまで毛利氏に従っていた直家でしたが、ここへ来て織田方へと鞍替えしたのです。これにより、毛利氏の本領である安芸・長門方面と、播磨の間の陸路が遮断されることとなりました。第二次木更津口の海戦で織田水軍が毛利水軍を破ったこともあり、海上補給にも期待できませんでした。いよいよ完全に補給路を断たれた三木城は干し殺しにあい、城兵の助命と引き替えに一族共々自害することとなりました。長治が当主となってからほぼ十年。まだ二十代でした。この後、別所氏の家督は重宗が継いだようです。秀吉の家臣として但馬で大名となっています。

別所長治 辞世の句です。

今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば

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