安らかに行く道こそ真実の道 ~松井康之、名家老が到達した安寧の境地~

戦国武将 辞世の句

戦国時代から江戸時代初期にかけて、目まぐるしく移り変わる時代の流れの中、主家である細川家を二代にわたって忠実に支え続けた名家老がいました。その名は、松井康之(まつい やすゆき)。室町幕府の幕臣の家に生まれながら、後に細川藤孝(幽斎)・忠興親子に仕え、文武両道、特に算術(財政)に長けた卓越した実務能力を発揮し、細川家の発展と安定に大きく貢献した人物です。

多くの戦乱や主家の浮沈、そして政権の移り変わりという激動の時代を見届け、60年以上にわたって忠勤に励んだ康之。その長い生涯の終わりに遺されたとされる辞世の句は、これまでの人生の労苦や世の無常を嘆くのではなく、むしろ自らの死を「安らかに行く道」「真実の道」として穏やかに、そして確信をもって受け入れる、明るささえ感じさせる境地を示しています。

やすく行(ゆく) 道(みち)こそ道よ 是(これ)やこの これぞまことの 道に入(い)りけり

細川家を支え続けた名家老:松井康之

松井康之は、天文19年(1550年)、室町幕府の将軍に仕える幕臣であった松井正之の子として生まれました。当初は父と同じく、13代将軍・足利義輝、そしてその弟である15代将軍・足利義昭に仕える武士でした。

しかし、元亀4年(1573年)、織田信長によって足利義昭が京都から追放され、室町幕府が事実上滅亡するという歴史的な転換点を迎えます。主家を失った康之は、同じく幕臣であり、当代随一の文化人としても名高い細川藤孝(幽斎)に、その才能を見出されて仕えることになりました。これ以降、松井康之は、藤孝、そしてその子であり、気性の激しさでも知られる細川忠興の二代にわたり、細川家の最も信頼される重臣、筆頭家老として、その生涯を捧げることになります。

康之は、武将としても、細川家が関わった数々の戦に従軍し功績を挙げていますが、その真価はむしろ、卓越した行政手腕、特に算術能力を活かした財政運営において発揮されました。細川家の領国経営において、検地の実施責任者(奉行)を務めたり、年貢の徴収や家中の経理などを的確に管理したりすることで、主家の財政基盤を安定させ、強化しました。主君からの信頼は絶大であり、細川家が戦国時代を生き抜き、豊臣政権下、そして江戸幕府の下で有力な大名として存続していく上で、康之の存在はまさに不可欠でした。

豊臣秀吉政権下では、秀吉が実施した太閤検地の奉行を務めるなど、中央政権との重要なパイプ役としても活躍しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、主君・細川忠興が徳川家康率いる東軍の主力として活躍する中、康之は忠興の留守を預かり、丹後国(現在の京都府北部)の田辺城(舞鶴城)に籠城した父・藤孝(幽斎)を支えました(田辺城の戦い)。

関ヶ原の戦後、細川家がその功績により豊前国(現在の福岡県東部)小倉藩39万9千石の大封を得ると、松井康之も筆頭家老として、新たな領国の統治基盤の整備と安定に尽力します。豊前国規矩郡(きくぐん、現在の北九州市周辺)に2万5千石を与えられ、城(後の小倉城の一部となった、あるいはその前身か)を築いてその経営にあたりました。

室町幕府の終焉から、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康へと、日本の支配者が目まぐるしく移り変わる激動の時代を生き抜き、常に細川家のために忠誠を尽くした松井康之は、慶長17年(1612年)7月26日、豊前国規矩郡の居城にて、63年の生涯を閉じました。康之の跡は、子の松井興長(おきなが)が継ぎ、後に細川家が肥後熊本藩へ移封されると、興長は八代城(熊本県八代市)の城代家老として、代々細川家の重臣筆頭の家柄として、幕末まで続くことになります。

辞世の句に込められた:安らかなる確信

激動の時代を生き抜き、主家のためにその生涯を捧げ、家老として大往生を遂げた松井康之。その最期に遺されたとされる辞世の句、「やすく行く 道こそ道よ 是やこの これぞまことの 道に入りけり」には、どのような心境が込められているのでしょうか。

「苦痛なく、安らかに死へと向かうこの道こそが、人間がたどるべき真実の道なのだ。ああ、これこそが、これこそが、本当に正しい道、迷いのない悟りへと至る道に入ったということなのだなあ」。

この句からは、死に対する恐怖や、人生への後悔、現世への未練といったネガティブな感情は一切感じられません。むしろ、「やすく行く道」を「道こそ道よ」「まことの道」と、力強い肯定の言葉で繰り返し捉えている点に、松井康之の穏やかで、揺るぎない確信に満ちた心境が鮮やかに表れています。康之にとって、死は恐れるべき終焉ではなく、むしろ安らかに至るべき自然なプロセスであり、究極的には真実(まこと)へと続く道であると、深く理解し、受け入れていたようです。

「是やこの これぞ」という、感動や確信を強調する言葉の繰り返しは、まるで長年の人生経験と信仰、あるいは思索の末に、ついに迷いのない真実の道(悟り)を見出し、その入り口に立ったことへの、ある種の静かな喜びや深い安堵感さえ感じさせます。これは、康之が日頃から仏教(特に、阿弥陀仏の救済による安らかな往生を説く浄土宗や、自らの力で悟りを目指す禅宗など)に深く帰依していたことを強くうかがわせます。仏の教えに対する深い理解と信仰心が、死後の世界への不安を取り除き、安らかな旅立ちへの絶対的な確信をもたらしたのかもしれません。

また、60年以上にわたり、細川藤孝・忠興という二人の主君に忠実に仕え、細川家の安定と発展に大きく貢献できたことへの深い満足感、そして自らの人生を家老として全うしたという達成感も、この穏やかで肯定的な死生観の背景にあるのかもしれません。波乱万丈の時代を生き抜き、大役を果たし終えた名家老の、静かで満ち足りた、そして確信に満ちた最期の境地が、この短い句の中に凝縮されていると言えるでしょう。

仕事への取り組み方や、人生の終え方、そして心の平安について

松井康之の生涯と、その穏やかで確信に満ちた辞世の句は、ストレスが多く、将来への不安も抱えがちな現代社会を生きる私たちに、仕事への取り組み方や、人生の終え方、そして心の平安について、多くの示唆を与えてくれます。

  • 穏やかな死生観を持つことの意味: 死をタブー視したり、ただ恐れたりするのではなく、康之のように「やすく行く道」「まことの道」として、人生における自然な移行プロセスの一部として穏やかに受け入れるという視点。それは、死への過剰な不安から心を解放し、限りある「今」をより良く、より安らかに生きるための心の持ち方につながるかもしれません。
  • 自分が信じる「まことの道」を探求し、見出すこと: 人生において、自分が本当に価値を置き、心から信じられる「道」(それは特定の仕事、ライフスタイル、趣味、学問、信仰、人間関係、あるいは自分自身の生き方の哲学など、様々でしょう)を見つけ、それを探求し続けること。そのプロセス自体が人生を豊かにし、康之のように「これぞ」という確信に至った時、それは大きな心の支えとなります。
  • 確信がもたらす心の強さと穏やかさ: 自分の中に揺るぎない確信を持つことは、外部の状況や他者の評価に惑わされず、困難な状況でもブレない心の強さ、そして穏やかな安らぎをもたらします。自分自身と深く向き合い、経験と思索を重ねることで、自分なりの確信を見つけ出す努力が大切です。
  • 実務能力と忠誠心・誠実さの両立の重要性: 康之が細川家で果たした役割が示すように、専門的なスキルや実務能力(康之の場合は算術や行政手腕)と、自分が属する組織やリーダー、あるいは顧客や社会に対する誠実さ・忠誠心の両方を高いレベルで兼ね備えることは、組織にとって極めて価値が高く、また個人にとっても長期的に信頼され、充実したキャリアを築く上で非常に重要です。
  • 長きにわたる地道な貢献とその価値: 一つの目標や組織、あるいは地域社会などに対して、長期間にわたり地道に努力し、誠実に貢献し続けること。派手さはないかもしれませんが、その着実な積み重ねが、大きな成果を生み出し、人生の終わりに「よくやった」「これでよかった」と思えるような深い達成感や満足感をもたらしてくれることがあります。

細川家二代に忠誠を尽くし、激動の時代を生き抜いた名家老、松井康之。その辞世の句は、戦国の世の厳しさや無常観とは一線を画す、安らかで、確信に満ちた穏やかな心境を示しています。「やすく行く道こそまことの道」――その言葉は、私たちに、死を穏やかに受け入れ、自らが信じる真実の道を見出すことによって得られる、深い心の平安と、人生の充足感について、静かに、そして温かく語りかけてくるようです。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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