後の世までも仕えなむ ~中村文荷斎、死を超えた忠臣の願い~

戦国武将 辞世の句

戦国時代から安土桃山時代にかけて、一介の足軽身分から天下人にまで成り上がった豊臣秀吉。その輝かしい成功の陰には、秀吉の才能を早くから見抜き、その覇業を文字通り命がけで支え続けた多くの忠実な家臣たちがいました。中村文荷斎(なかむら ぶんかさい)も、そうした秀吉子飼いの、古くからの家臣の一人です。詳しい経歴については謎に包まれた部分が多いですが、秀吉が天下取りへの大きな一歩を踏み出すことになった重要な戦い、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにおいて、主君のために奮戦し、その命を散らしました。

戦場で死を目前にした文荷斎が遺したとされる辞世の句は、自らの死の運命を嘆く言葉ではありませんでした。それは、敬愛してやまない主君・秀吉への限りない忠誠心と、死という境界線をも超えて、来世までも仕え続けたいと願う、驚くほどに強く、そしてどこまでも純粋な忠臣の魂の叫びだったのです。

契(ちぎ)りあれや 涼しき道に 伴(ともな)ひて 後(のち)の世までも 仕(つか)へ仕へむ

秀吉に仕え、賤ヶ岳に散る:中村文荷斎

中村文荷斎(諱は氏次(うじつぐ)など諸説あり)の出自や前半生については、近江国(現在の滋賀県)の出身であるとされる以外、詳細な記録は乏しく、不明な点が多くあります。「文荷斎」という風雅な号(僧侶や文人などが用いる別名)から推測すると、単なる武辺者ではなく、文筆や学問にも通じた教養ある人物であった可能性も考えられます。

確かなのは、文荷斎が早くから羽柴(豊臣)秀吉に仕え、その側近くにあって信頼を得ていた古参の家臣であったということです。秀吉がまだ織田信長配下の一武将として、近江長浜城主であった頃から、あるいはそれ以前から、秀吉の側近として、あるいは武将として、その知謀や武勇をもって様々な場面で主君を支えていたのでしょう。

中村文荷斎の最期は、天正11年(1583年)4月、近江国の賤ヶ岳周辺で繰り広げられた戦いにおいて訪れます。本能寺の変で織田信長が非業の死を遂げた後、その後継者の地位と天下の覇権をめぐり、信長の家臣団は大きく二つに割れました。羽柴秀吉と、信長配下の筆頭家老であった柴田勝家との対立が決定的となり、両軍が雌雄を決したのが、この賤ヶ岳の戦いです。

この戦いは、秀吉にとって、自らが信長の後継者となり、天下人への道を確実にする上で、絶対に負けられない極めて重要な戦いでした。中村文荷斎も、秀吉軍の一員としてこの決戦に参加し、主君の勝利のために勇猛果敢に戦いました。戦いは、秀吉軍が柴田軍の猛将・佐久間盛政の突出を逆手に取るなど、巧みな戦術と機動力によって劇的な勝利を収めます。しかし、その勝利の陰で、激しい戦闘の中で文荷斎は奮戦むなしく討死してしまったのです。秀吉の天下取りへの道は、文荷斎のような多くの忠実な家臣たちの尊い犠牲の上に築かれていったのでした。

来世までも続く忠義

賤ヶ岳の戦場で命尽きるその瞬間、中村文荷斎の胸に去来したのは、どのような思いだったのでしょうか。遺された辞世の句、「契りあれや 涼しき道に伴ひて 後の世までも 仕へ仕へむ」。

「もし叶うことならば、この私と我が主君・秀吉様との間に結ばれた、この尊い主従の縁(契り)が、どうか死後の世界にも続いてほしいものだ。そして、願わくは、苦しみのない安らかな彼の世への道(涼しき道=極楽浄土への道)を、主君のお供をして共に歩ませていただきたい。そればかりか、その先の来世においても、何度生まれ変わったとしても、この秀吉様にお仕えし続けたいと、切に願うばかりである」。

この句には、自らの死を前にした恐怖や、現世への未練といった個人的な感傷はほとんど見られません。文荷斎の心を占めているのは、ただひたすらに敬愛する主君・豊臣秀吉への、深く、強く、そして揺るぎない忠誠心です。その思いは現世に留まることなく、死後の世界、さらには「後の世までも」仕え続けたいと願うほどに、絶対的なものでした。

「契りあれや」という言葉には、秀吉という類稀な人物に出会い、その家臣として仕えることができたことへの深い感謝と、その主従の絆(契り)がいかに強く、かけがえのないものであったか、そしてその絆が死によっても断ち切られることなく、永遠に続くことを切望する、文荷斎の熱烈な心が込められています。「涼しき道」という表現には、死後の世界に対する穏やかなイメージと共に、敬愛する主君の傍らにいられるのであれば、死出の旅路も決して恐ろしいものではなく、むしろ安らかなものになるだろうという、主君への絶対的な信頼感がうかがえます。

そして、末尾の「仕へ仕へむ」という、動詞を繰り返す表現は、文荷斎の揺るぎない忠誠心と、主君への奉仕に生涯を捧げ、さらに来世までも捧げ尽くしたいという、燃えるような強い意志を強調しています。秀吉の非凡な才能と人間的な魅力、そして天下取りという壮大な夢に心からの共感と尊敬を抱いていた文荷斎にとって、秀吉に仕えることこそが、生きる喜びであり、死をも超えた究極の願いであったのかもしれません。

現代にも通じる、中村文荷斎の生き様

中村文荷斎の辞世の句は、封建時代の主君への絶対的な忠誠という、現代とは異なる価値観の中で詠まれたものですが、その根底にある人間的な思いや精神性は、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。

  • 深い敬愛とコミットメントの力: 誰か特定の人(上司、メンター、師匠、パートナーなど)や、あるいは自分が属する組織、追求する理念や目標に対して、心からの敬愛の念を持ち、深くコミットメント(関与・貢献)すること。それは、時に自分の想像を超える力を引き出し、人生に深い意味や充実感を与えてくれる源泉となり得ます。
  • 献身的に尽くす生き方の輝き: 自分の利益や保身だけを第一に考えるのではなく、他者や、自分が価値を置くもの(組織、理念、家族など)のために、時間や労力、時には多くを犠牲にして献身的に尽くすという生き方。その姿は、損得勘定を超えた人間本来の美しさや尊さを感じさせます。
  • 死をも超える絆の存在: 人と人との間に生まれる深い信頼関係や愛情、あるいは強い師弟関係や仲間意識は、物理的な別離である死をも乗り越えて、心の中で生き続け、精神的な繋がりとして残ることがあります。文荷斎の句は、そうした人間関係の絆が持つ力の深遠さを示唆しています。
  • 信念を持って「仕える」ことの意味: 現代において「仕える」という言葉は使われにくくなっていますが、「自分が心から貢献したいと思える対象を見つけ、そのために自分の能力や情熱を注ぎ込む」と捉え直すことができます。そのような対象を見つけ、それに全力を尽くすことは、困難を伴うかもしれませんが、同時に大きな自己実現や生きがいをもたらす可能性があります。
  • 人を惹きつけ、動かすリーダーシップ: 家臣に「後の世までも仕えたい」とまで思わせるほどの強い求心力を持っていたとされる豊臣秀吉。文荷斎の句は、優れたリーダーが持つべき、人々を心から惹きつけ、その忠誠心や情熱を引き出す力(カリスマ性、ビジョン、人徳など)がいかに重要であるかを物語っています。

豊臣秀吉の天下取りへの道を切り開いた賤ヶ岳の戦いで、その礎となって散っていった忠臣、中村文荷斎。その詳しい生涯は歴史の影に隠れていますが、遺された辞世の句は、主君への限りない忠誠心と、死をも恐れぬ純粋で強靭な献身の精神を、私たちに鮮やかに伝えています。「後の世までも仕へ仕へむ」――その一途な思いは、時代を超えて私たちの胸を打ち、真の忠義とは何か、人が何かに全てを捧げることの意味とは何かを、深く問いかけてくるようです。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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