信濃国(現在の長野県)に古くから根ざし、諏訪大社の最高神官「大祝(おおほうり)」をも兼ねるという、特別な血筋を受け継いだ名門・諏訪氏。その当主であった諏訪頼重(すわ よりしげ)は、戦国時代の荒波の中で、隣国・甲斐の武田信玄(当時は晴信)の裏切りによって、若くして非業の最期を遂げた悲劇の人物です。
かつては同盟を結び、義兄弟の関係でもあった信玄に攻め滅ぼされ、降伏したにも関わらず自害に追い込まれた頼重。その無念はいかばかりであったでしょう。しかし、頼重が遺したとされる辞世の句は、激しい怒りや恨みではなく、まるで枯れゆく草の葉のように、自らの運命を静かに受け入れる、深い諦観に満ちています。
おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の 主(ぬし)あらばこそ 又も結ばめ
諏訪大社の神官、そして戦国大名:諏訪頼重の生涯
諏訪頼重は、信濃国の名族であり、日本最古の神社の一つとも言われる諏訪大社の最高神官である「大祝(おおほうり)」を代々世襲してきた諏訪氏の惣領家に、永正13年(1516年)に生まれました。若くして家督と大祝職を継ぎ、戦国大名として諏訪地方を治めると同時に、現人神(あらひとがみ)とも称される神聖な存在でもありました。武家の棟梁と神官の長という、二つの重い役割を一身に担っていたのです。
当時の信濃国は、村上氏、小笠原氏など多くの国人領主が割拠し、互いに争う不安定な情勢にありました。頼重は、領国の安定を図るため、東に隣接する甲斐国の有力大名・武田信虎(信玄の父)と同盟を結びます。その同盟の証として、頼重は自らの娘(一説には妹とも)である禰々(ねね)を、信虎の嫡男・晴信(後の信玄)に嫁がせ、両家は姻戚関係となりました。
しかし、天文10年(1541年)、晴信がクーデターによって父・信虎を駿河国(静岡県)へ追放し、武田家の家督を相続すると、状況は一変します。翌天文11年(1542年)、若き当主となった武田晴信は、信濃国への本格的な侵攻を開始。そして、かつて同盟を結び、義理の兄弟でもあるはずの諏訪頼重に、突如として牙を剥いたのです。晴信は、頼重と領地争いをしていた高遠頼継(たかとお よりつぐ、頼重の従兄弟)らと手を結び、諏訪領への侵攻を正当化しました。
義兄弟からの突然の裏切り、そして同族からの離反という、二重の苦難に見舞われた頼重。居城である上原城(長野県茅野市)で必死に抵抗しますが、武田軍の猛攻の前に支えきれず、支城の桑原城(長野県諏訪市)へと追い詰められます。周囲を完全に包囲され、万策尽きた頼重は、晴信が提示した和睦の申し出(生命の保証)を受け入れ、降伏を決意しました。
しかし、この和睦の約束は、晴信によって無情にも反故にされます。頼重は弟の頼高と共に甲府へ連行され、武田氏の菩提寺である東光寺に幽閉された後、同年7月21日、晴信の命により兄弟共に自害させられました。享年27。神聖な血筋を引く名門の若き当主は、信玄の非情な策略の前に、その短い生涯を無念のうちに閉じたのです。(なお、頼重の娘・諏訪御料人は、後に信玄の側室となり、武田家最後の当主となる武田勝頼を産むことになります。)
枯れゆく草の葉、神への問い
同盟相手に裏切られ、約束を破られて死に追いやられた諏訪頼重。その最期に詠まれたとされるのが、「おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ」という句です。
「(人の力によるというよりは)自然の成り行きとして、私の命も、この草の葉のように儚く枯れ果ててしまったことだ。もしこの諏訪の地に真の主(=諏訪大社の神、あるいは頼るべき超越的な存在)がいらっしゃるならば、(朝露が再び草の葉に宿るように)私の魂もまたいつか縁を結ぶ(=救われる、あるいは再びこの地に現れる)こともあるのだろうか。いや、もはやそのようなことは期待すべくもないのだろうな…」。
この句からは、まず自らの死を、自然界の摂理である「草の葉が枯れる」ことに重ね合わせ、静かに受け入れようとする深い諦観が感じられます。「おのづから」という言葉には、信玄の裏切りという直接的な原因を超えた、人の力ではどうにもならない運命の流れ、すなわち「時」が来たのだという悟りが込められているようです。
そして、後半の「主あらばこそ 又も結ばめ」の部分には、頼重の複雑な心境が凝縮されています。「主」を、頼重が仕えるべき存在であった諏訪大社の神と解釈すれば、大祝という神聖な地位にありながら非業の死を遂げることになった頼重が、自らの信仰の根幹である神に対して、「本当に力ある神ならば、この私を見捨てられるはずがないのではないか」「神意はどこにあるのか」と、かすかな期待と深い疑念を込めて問いかけているようにも読めます。しかし、末尾の「~め」が反語的なニュアンス(~だろうか、いや~ないだろう)を強く帯びていることを考えると、最終的には神による救済ももはや期待できない、という深い絶望や孤独感、そして現世への完全な決別の思いが示されているのかもしれません。
裏切りへの激しい怒りや、若くして死ぬことへの無念さを直接的にぶつけるのではなく、静かな自然の比喩と、信仰対象への問いかけ(そして諦め)という形で、頼重は自らの最期の心境を、繊細かつ深く表現しようとしたのではないでしょうか。そこには、神官であり武将であった頼重ならではの、特異な立場から生まれた、悲しくも気高い精神性がうかがえます。
武田信玄の裏切りによって非業の最期を遂げた諏訪頼重の生涯と辞世の句は、現代を生きる私たちにも、人生における理不尽さや、それに対する心の持ちようについて深く考えさせます。
- 裏切りや理不尽との向き合い方: 信じていた人や組織から裏切られたり、約束を反故にされたりすることは、深い心の傷となります。頼重の悲劇は、そうした人間社会の非情さを映し出すと共に、怒りや恨みに囚われるだけではない、諦観という向き合い方もあることを示唆します。
- 運命の受容と「おのづから」の感覚: 人生には、自分の意志や努力だけではコントロールできない、大きな運命の流れや「おのづから」の力が働いていると感じることがあります。その流れに抗うだけでなく、時には受け入れ、身を委ねるという姿勢も、心の平静を保つためには必要かもしれません。
- 自然に学ぶ死生観: 「草の葉が枯れる」ように、人の命にも限りがあり、生と死は自然のサイクルの一部であるという見方。自然の摂理に目を向けることで、死への過度な恐怖が和らぎ、より穏やかな気持ちで生と死を見つめることができるかもしれません。
- 信仰や拠り所の意味と限界: 頼重が最後に「主(神)」に問いかけたように、人は困難な状況や人生の終焉において、精神的な支えや救いを求めます。信仰や自分なりの哲学、価値観を持つことは心の安定に繋がりますが、時にそれが揺らいだり、限界を感じたりすることもあるという現実も示唆しています。
- 静かなる強さ、諦観の力: 激しい感情を表に出さず、静かに運命を受け入れる。頼重の辞世の句に見られる諦観は、単なる弱さや逃避ではなく、現実を直視した上での精神的な強さ、内面的な成熟を示しているとも言えます。
信濃の名門に生まれ、神官大名として特別な存在でありながら、戦国の非情な現実に翻弄され、若くして散った諏訪頼重。その辞世の句は、裏切りへの悲しみや無念さを深く内に秘めながらも、枯れゆく草の葉に自らを重ねて運命を受け入れた、静かで深い諦観を湛えています。頼重の悲劇的な生涯と、最後にたどり着いた静謐な心境は、私たちの心に、人生の儚さと、その中で見出すべき心のありようを、静かに問いかけてくるようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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