「智の小栗」と謳われた幕臣・小栗上野介の名言|日本の近代化を構想し、新政府に斬られた悲劇の宰相

幕末の人物

幕末という時代の転換点において、もし一人の男が存在しなかったら、日本の近代化は数十年遅れていたかもしれない―。そう断言する歴史家は少なくありません。その男の名は、小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)。徳川幕府の勘定奉行という、今でいう財務大臣兼経済産業大臣にあたる重職を担い、驚くべき先見性と構想力で、日本の未来図を描き続けた「最後の幕臣」です。

彼は、蒸気船が海を覆い、大砲が国境を脅かす時代に、いち早く日本の進むべき道を悟っていました。しかし、そのあまりに先進的な思想と、時勢に迎合しない剛直な性格は、味方であるはずの幕府内でさえ孤立を招き、そして最終的には、彼が礎を築いた新時代の政府によって「逆賊」として命を奪われるという、あまりにも悲劇的な結末を迎えます。この記事では、明治の偉人たちが「明治政府の近代化政策は、小栗の模倣にすぎない」とまで言わしめた、悲劇の天才宰相・小栗上野介の壮絶な生涯と、その揺るぎない信念が込められた名言を深く掘り下げていきます。

小栗上野介とは:時代を10年先駆けた「ビジョナリー」

小栗上野介を単なる優秀な幕臣として語ることはできません。彼は、未来を正確に予測し、そのために何をすべきかを具体的に構想できた、真の「ビジョナリー(未来を構想する人)」でした。彼の才能が世に出るきっかけとなったのが、万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカへ派遣された「遣米使節団」の一員に抜擢されたことでした。

ワシントンの造船所を訪れた際、彼は無数のねじが整然と並べられているのを見て衝撃を受けます。「この小なるねじが、巨大な軍艦を造り上げる基礎となっている」。彼は、西洋文明の強大さが、こうした規格化された工業製品の大量生産能力に支えられていることを見抜きました。帰国後、彼は土産として持ち帰った一本のねじを仲間たちに見せ、「このねじを造る技術なくして、日本は泰平を維持できない」と説いたといいます。彼の視線は、もはや刀や槍ではなく、その先にある産業基盤そのものに向けられていたのです。

日本の近代化設計図:横須賀造船所という「国家百年の計」

帰国後、勘定奉行などの要職を歴任した小栗は、その卓越した構想力を次々と実行に移していきます。彼が手がけたプロジェクトは、まさに日本の近代化の設計図そのものでした。

横須賀製鉄所(造船所)の建設

彼の最大の功績として挙げられるのが、横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)の建設です。これは、単に船を修理するドックではなく、製鉄から部品の製造、そして大型蒸気船の建造までを一貫して行える、一大コンビナートを造り上げるという壮大な計画でした。彼はフランスの技術援助を取り付け、莫大な国家予算を投じてこの一大事業を推進します。

周囲からは「幕府の財政を傾ける無謀な計画だ」と猛烈な反対を受けましたが、彼は一歩も引きませんでした。「国を守る軍艦を、外国から買い続けるだけで良いのか。自らの手で造る技術を持たねば、真の独立はあり得ない」。彼の頭の中には、この造船所が将来、日本の産業と国防の心臓部となる未来がはっきりと見えていたのです。事実、この造船所は明治政府に引き継がれ、日本の造船技術、ひいては重工業の発展の礎となりました。日露戦争で活躍した連合艦隊の軍艦の多くが、ここで建造・修理されたことを思えば、彼の先見性には驚嘆するしかありません。

株式会社制度の導入とフランス式陸軍の創設

彼の構想は、軍事や工業にとどまりませんでした。彼は、兵庫商社(後の神戸商船)の設立を主導し、日本で初めて「株式会社」の仕組みを導入しました。また、フランス式の軍事教練を取り入れ、洋式の陸軍を創設。さらに、郵便制度や鉄道網の敷設、ガス灯の設置といった、近代国家に不可欠なインフラ整備計画も次々と立案しました。これらは全て、彼が失脚した後に、明治政府が「新政策」として実現したものばかりでした。

非業の最期:新政府に斬られた「旧時代の叡智」

これほどまでに日本の未来を構想した小栗でしたが、時代の奔流は彼に味方しませんでした。大政奉還後、戊辰戦争が勃発すると、彼は徳川慶喜に対し、薩長との徹底抗戦を主張します。しかし、恭順の意を固めていた慶喜にその意見は容れられず、全ての役職を罷免されてしまいます。

失意の小栗は、領地である上州権田村(現在の群馬県高崎市)に引き揚げ、静かな隠遁生活に入りました。しかし、明治元年(1868年)、新政府軍は「徳川の埋蔵金を隠している」「新政府に反乱を企てている」という全くの濡れ衣を着せ、彼を捕縛します。そして、一切の取り調べや裁判が行われることなく、烏川の河原で家臣と共に斬首するという暴挙に出ました。享年42歳。日本の近代化を設計した偉大な頭脳は、彼が創ろうとした新しい時代を見ることなく、理不尽にこの世を去ったのです。

小栗上野介の名言集:国家の未来を憂う不動の信念

「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」

横須賀造船所の建設に莫大な予算を投じることへの批判に対し、彼が言い放ったとされる言葉です。たとえ自分が仕える徳川幕府が滅びようとも、日本という国家は永遠に続いていく。だからこそ、今なすべきは、目先の幕府の延命策ではなく、国家百年の未来を見据えた投資なのだという、彼の揺るぎない信念が込められています。組織への忠誠と、国家への忠誠を区別し、より高い次元で物事を考えていた彼のスケールの大きさを象徴する名言です。

「跡は野となれ山となれと云って退散するのはよろしくない」

これも、造船所建設への反対派に向けた言葉です。自分たちの代さえ良ければ、あとはどうなっても構わないという無責任な態度は許されない。後世の人々が「徳川のやった仕事は立派だった」と評価してくれることこそが、徳川家の真の名誉ではないか、と彼は説きました。為政者として、未来に対する責任を強く自覚していた彼の矜持が表れています。

「一言も弁明いたしませぬ」

濡れ衣を着せられ、斬首される直前、彼は泰然自若としてこう言い放ったと伝えられています。もはや、言葉を尽くしても通じない相手に、弁明は無用。武士としての、そして己の信念に生きた男としての、最後の誇りを示した言葉です。その潔い態度は、処刑にあたった新政府軍の兵士さえも感嘆させたとされています。

まとめ:時代に殺された、早すぎた天才

小栗上野介の悲劇は、彼が「時代を先取りしすぎていた」ことに尽きます。彼の描いた近代化構想は、あまりにも壮大で、旧態依然とした幕臣たちの理解を超えていました。そして、新しい時代を創ろうとする新政府にとっては、彼の存在そのものが、自分たちの正当性を揺るかしかねない「危険な叡智」だったのです。

しかし、歴史は正直です。後年、大隈重信や東郷平八郎といった明治の元勲たちは、口を揃えて小栗の功績を称賛しました。彼が遺した横須賀造船所という「国家百年の遺産」がなければ、日本の近代化はあり得なかったことを、彼ら自身が誰よりも理解していたからです。小栗上野介は、旧時代の敗者として非業の死を遂げました。しかし、その魂と構想は、彼が礎を築いた新しい日本の中に、確かに生き続けているのです。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました