恨みは忘れじ、仇し人をば ~波多野秀尚、裏切りに散った無念の叫び~

戦国武将 辞世の句

戦国時代、天下統一を目指す織田信長の前に、敢然と反旗を翻し、最後まで抵抗を続けた一族がいました。丹波国(現在の京都府・兵庫県の一部)に勢力を誇った波多野氏です。波多野秀尚(はたの ひでなお)は、当主であった兄・秀治(ひではる)を支え、共に信長配下の明智光秀率いる大軍と戦った武将でした。

一年半にも及ぶ壮絶な籠城戦の末、波多野兄弟は城兵の助命と引き換えに降伏します。しかし、その約束は反故にされ、兄弟は無残にも処刑されてしまいました。裏切りによって命を奪われた秀尚が、最期に遺したとされる辞世の句は、仏教的な達観や諦観とは無縁の、裏切った者への消えることのない、あまりにも強い恨みの言葉でした。

おほけなき 空の恵みも 尽きしかど いかで忘れん 仇(あだ)し人(びと)をば

信長に抗った丹波の武士:波多野秀尚

波多野秀尚の出自については、丹波国の有力な戦国大名であった波多野秀治の弟とする説が一般的ですが、秀治の子や従弟とする説もあり、正確な続柄は定かではありません。いずれにしても、秀尚は波多野一族の中核をなす有力な一員として、当主である秀治を補佐し、一族郎党を率いて丹波国の支配と防衛を支えていました。

波多野氏は、丹波国において代々勢力を保ってきた名族でしたが、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、その勢力が畿内一円に及んでくると、その対応を迫られます。当初、波多野氏は信長の家臣・明智光秀の斡旋もあって、信長に従属する姿勢を見せていました。

しかし、天正3年(1575年)10月、突如として波多野秀治・秀尚兄弟は信長に対して反旗を翻します。その理由については、信長が波多野氏に対して無理な要求(例えば、人質の差し出しや領地の割譲など)をしたためとも、丹波国人としての独立性を守ろうとする気概からとも、あるいは他の反信長勢力(足利義昭や毛利氏など)と連携を図ったためとも言われ、諸説ありますが、天下布武を進める信長にとっては許しがたい裏切り行為と映りました。

激怒した信長は、丹波方面軍の総司令官であった明智光秀に対し、波多野氏の完全討伐を厳命します。天正5年(1577年)頃から、光秀による丹波攻略戦は本格化し、周囲の国人衆を切り崩しながら、波多野氏の本拠地である八上城(やかみじょう、現在の兵庫県丹波篠山市)へと迫りました。秀治と秀尚は、八上城に籠城し、明智光秀率いる織田の大軍を相手に、徹底抗戦の構えを見せます。

八上城の戦いと裏切りの最期

八上城は、天然の要害に築かれた堅固な山城であり、波多野秀治・秀尚兄弟と城兵たちは、明智光秀の攻撃を何度も撃退しました。籠城戦は長期化し、約一年半(1578年春頃から1579年6月まで)にも及びました。これは、当時の籠城戦としては異例の長さであり、波多野方の抵抗がいかに激しかったかを物語っています。

しかし、長期にわたる籠城により、城内の兵糧は次第に底をつき、兵士たちの疲弊も限界に達していました。これ以上の抵抗は不可能と判断した明智光秀は、波多野方に対して降伏を勧告します。光秀が提示した条件は、「城主である波多野秀治・秀尚兄弟が自らの命を差し出せば、城内にいる他の者たちの命は保証する」というものでした。一説には、光秀が自らの母を人質として城内に送り、降伏を促したとも伝えられています。

城兵たちの命を救うため、秀治と秀尚は、この降伏勧告を受け入れることを決断。潔く城を開け渡し、明智光秀に投降しました。

しかし、この助命の約束は、最終的に反故にされてしまいます。秀治と秀尚は、捕虜として安土城の織田信長のもとへ護送されることになりましたが、その途中、あるいは安土城下に到着した後、信長の命令によって磔(はりつけ)などの方法で処刑されてしまったのです。助命を信じて降伏したにも関わらず、裏切られる形での、あまりにも無残な最期でした。天正7年(1579年)6月のことと伝えられています。(光秀の母が人質になっていた場合、その母も波多野方に殺害されたという俗説もありますが、信憑性は低いとされています。)

消えることなき恨み

約束を反故にされ、無念の死を遂げることになった波多野秀尚。その処刑される間際に、あるいは護送される道中で詠んだとされるのが、「おほけなき 空の恵みも 尽きしかど いかで忘れん 仇し人をば」という句です。

「身に余るほどの天からの恵み(=これまでの人生で受けてきた幸運、あるいはかつて信長から一時的に与えられたかもしれない地位や安堵)も、もはや全て尽きてしまった。我が運命もここまでだ。しかし、だからといって、どうして忘れることができようか。我らを騙し、裏切り、このような非道な方法で命を奪う、あの憎き者(仇し人=約束を破った明智光秀、そしてその背後で全ての決定を下したであろう織田信長)のことを! いや、この恨みは、死んでも決して忘れはしないぞ!」

この句には、多くの戦国武将が辞世に詠むような、仏教的な悟りや、死を受け入れる静かな諦観といった要素はほとんど見られません。「空の恵みも尽きしかど」という前半部分に、自らの運命が尽きたことへの認識はあるものの、それは諦めというよりは、むしろ後半の激しい恨みを引き立たせるための前置きのようにも聞こえます。

そして何よりも強烈なのが、「いかで忘れん 仇し人をば」という、抑えきれない憤りと憎しみが込められた結びです。「仇し人」とは、第一には助命の約束を破り、自分たちを死に追いやった明智光秀を指すと考えられますが、その背後で非情な命令を下したであろう織田信長への、より深い恨みが込められていると解釈するのが自然でしょう。その者たちへの、骨の髄まで染みとおるような深い恨みと怒り。「どうして忘れられようか、いや、絶対に忘れはしない」という、強い否定と執念にも似た決意が、この句からはほとばしり出ています。死を目前にしてもなお、消えることのない人間的な激しい感情が、赤裸々に表現されているのです。

武士としての誇りを踏みにじられ、裏切られたことへの怒り。若くして(正確な年齢は不明ですが、兄・秀治よりは若い)命を絶たれることへの無念。これほどストレートに「恨み」を辞世の句として遺した武将は稀であり、波多野秀尚が受けた仕打ちがいかに理不尽で、その心の傷がいかに深かったかを物語っています。

波多野秀尚の悲劇的な最期と、恨みに満ちた辞世の句

歴史の美しい側面だけではなく、その裏にある非情さや、人間の持つ根源的な感情について、現代を生きる私たちにも深く考えさせます。

  • 裏切りが刻む深い傷と怒り: 人を心から信じ、約束を交わしたにも関わらず、それが一方的に、しかも命に関わるような形で破られた時、人は計り知れないほどの怒りと恨みを抱きます。秀尚の句は、信頼関係を踏みにじる行為がいかに相手の心を深く傷つけ、決して消えることのない負の感情を残すかを、生々しく物語っています。
  • 「恨み」という感情をどう捉えるか: 恨みや憎しみは、一般的にはネガティブで、避けるべき感情とされます。しかし、秀尚の例のように、あまりにも理不尽な仕打ちを受けた際に、それを無理に押し殺したり、忘れようとしたりするのではなく、時にはその感情を正直に認識し、表現することも、人間として自然な反応であり、ある意味では精神的な抵抗の形なのかもしれません。
  • 権力の非情さと約束の重み(再認識): 天下統一という大義のためとはいえ、秀尚らを死に追いやった信長の判断は、極めて非情なものでした。権力を持つ者は、時に平然と約束を反故にし、他者の人生や命を軽んじることがあります。この悲劇は、権力の持つ恐ろしさと、人と人との間で交わされた約束がいかに重いものであるかを、改めて私たちに突きつけます。
  • 感情のリアリティと向き合う: 多くの辞世の句が、死を美化したり、達観した境地を詠んだりする中で、秀尚の句は極めて人間的な「恨み」という感情を、何のてらいもなく率直に表現しています。理想論や綺麗ごとだけではない、人間の生々しい感情のリアリティもまた、歴史の一部であり、私たちが目を背けずに受け止め、考察すべき対象であることを教えてくれます。
  • 敗者の視点から歴史を問い直す: 歴史物語は、しばしば勝者や成功者の視点から描かれますが、敗れ去った者にもまた、語られるべき真実と感情があります。秀尚の句は、敗者の視点から歴史の出来事を捉え直し、その多面性や複雑さを理解することの重要性を示唆しています。

織田信長・明智光秀という巨大な力に抗い、そして裏切られ、若くして非業の最期を遂げた丹波の武将、波多野秀尚。その辞世の句は、多くの武将が見せる達観や美学とは一線を画す、消えることのない深い恨みと無念の叫びです。「いかで忘れん 仇し人をば」――その言葉は、戦国の世の非情さ、裏切られた者の痛切な思いを、時代を超えて私たちに生々しく伝え、人間の持つ激しく、そして消し去ることのできない感情の力について、強烈な印象を残します。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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