戦国時代、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)に、武田信玄や北条氏康といった強大な敵の侵攻を幾度となく退け、「上州の黄斑(こうはん)」と称された名将がいました。長野業正(ながの なりまさ)。その業正が築き上げた堅固な結束力を受け継ぎ、若くして家督を相続したのが、長野業盛(なりもり)です。
しかし、偉大な父亡き後、業盛を待っていたのは、あまりにも過酷な運命でした。甲斐の虎・武田信玄による本格的な侵攻の前に、業盛は必死に抵抗しますが、最後は本拠地・箕輪城(みのわじょう)で壮絶な最期を遂げることになります。若き当主が見た、滅びゆく一族と故郷の姿。業盛が遺したとされる辞世の句は、失われたものへの深い哀愁と、春の夕暮れのような儚くも美しい無常観を漂わせています。
春風(はるかぜ)に 梅も桜も 散りはてて 名(な)のみ残れる 箕輪(みのわ)の山里
名将の跡を継いだ若き獅子:長野業盛
長野業盛は、天文15年(1546年)、上野国西部の戦国大名であり、関東管領・上杉憲政を支えた重鎮、長野業正の嫡男として生まれました。父・業正は、武田信玄や北条氏康という、戦国時代を代表する強力な武将たちに囲まれながらも、巧みな外交戦略と、「長野十六槍」に代表される精鋭家臣団の高い結束力を武器に、幾度となくその侵攻を撃退し、長野氏の独立と勢力を維持し続けた名将として知られています。
しかし、永禄4年(1561年)、長野家の精神的支柱であった業正は病に倒れ、亡くなってしまいます。この時、業盛はまだ16歳という若さでした。父・業正は、自らの死が武田信玄につけ入る隙を与えることを深く憂慮し、「自分が死んでも、三年間は喪を秘匿し、あたかも自分が生きているかのように振る舞い、我が名を使って城を守り抜け」という遺言を残したと伝えられています。若き当主となった業盛は、この父の重い遺言を守り、家臣団の動揺を抑え、父の死を隠して家督を継ぎ、迫りくる武田信玄の脅威に備えました。
父の死という大きな困難を乗り越え、健気に家を守ろうとする業盛でしたが、百戦錬磨の武田信玄は、業正という最大の障壁が取り除かれたことを見逃しませんでした。永禄5年(1562年)頃から、信玄は上野国西部(西上野)への本格的な侵攻を開始します。武田軍の圧倒的な兵力と巧みな調略の前に、長野氏を支えてきた支城や国人領主たちは次々と攻略され、あるいは武田方に寝返っていきました。
箕輪城落城、そして最期の時
次第に追い詰められた長野業盛は、最後の拠点である本拠地・箕輪城(現在の群馬県高崎市箕輪町)に籠城し、一族と家臣たちの運命を賭けた徹底抗戦の構えを見せます。永禄9年(1566年)9月、武田信玄は信濃・甲斐などから2万ともいわれる大軍を動員し、箕輪城を完全に包囲しました。
業盛は、父・業正が丹精込めて育て上げ、結束を誇った家臣団と共に、数に圧倒的に勝る武田軍を相手に奮戦します。「上州の黄斑」長野業正の名は伊達ではなく、城兵の士気は極めて高く、武田軍に大きな損害を与え、一時は押し返すほどの激しい抵抗を見せたとも伝えられます。若き業盛自身も、先頭に立って戦ったと言われています。
しかし、兵力差はいかんともしがたく、武田軍の波状攻撃の前に、城の守りは次々と破られていきます。城内の兵士たちも次々と討ち死にし、もはや落城は時間の問題となりました。これ以上の抵抗は無益と悟った長野業盛は、城内の持仏堂(じぶつどう)に入り、先祖代々の位牌に別れを告げた後、静かに自刃して果てました。享年わずか21歳。最後まで城に残り戦った多くの忠実な家臣たちもまた、主君の後を追うように討死、あるいは自害したと伝えられています。これにより、上野国に長く勢力を誇った名門・長野氏は滅亡し、その領地は武田氏のものとなったのです。
散りゆく花、残る名
若くして一族と故郷の滅びを見届け、自らも命を絶つことになった長野業盛。その最期に詠まれたとされるのが、「春風に 梅も桜も 散りはてて 名のみ残れる 箕輪の山里」という句です。
「春の風(=時代の激しい流れ、武田の侵攻という抗えない力)が吹き荒れて、早春に咲き誇った梅の花(=偉大だった父・業正、あるいは古くからの家臣たち)も、そして春爛漫に咲いた桜の花(=若くして散る自分自身や、共に戦った仲間たち、あるいは長野家の束の間の栄華)も、皆すっかり散ってしまった。今となっては、ただ父や我々が築いた武勇の名声だけが残っている、この愛おしい箕輪の山里よ…」。
この句には、まず、失われてしまったものへの深い哀惜の念、そして言いようのない寂寥感が込められています。「梅も桜も」という美しい比喩は、父・業正や、共に戦い散っていった家臣たち、そして自らの短い青春が、春の嵐によって無残にも散らされたことへの痛切な悲しみを表しています。「散りはてて」という言葉が、その喪失感の深さを物語ります。
そして、「名のみ残れる」という部分には、二つの相反する思いが複雑に交錯しているように感じられます。一つは、父・業正が築き上げ、自らも命を懸けて守ろうとした長野氏の名声、その武勇と忠義への誇りです。しかし同時に、もはやその栄光を支える実体(領地、家臣、一族、そして自らの命)は失われ、名ばかりが虚しく残ってしまったことへの深い虚無感、寂しさも滲んでいます。
最後の「箕輪の山里」という結びの言葉は、自らが生まれ育ち、そして今まさに最期の地となる故郷への、断ち切ることのできない深い愛着を示しています。滅びゆく運命を静かに受け入れながらも、その魂は最後まで、愛する故郷の山里と共にあったのです。若き当主が背負った悲運、故郷への愛、そして滅びゆくものの儚さが溶け合った、哀しくも美しい情景が目に浮かぶようです。
偉大な父の後を継ぎ、若くして滅びの運命に直面し、最後まで故郷を守ろうとした長野業盛の生涯と辞世の句は、現代を生きる私たちにも、多くのことを考えさせます。
- 継承の重みと困難さ: 偉大な親や先代から事業や役割、あるいは期待を引き継ぐことの難しさ、そしてそれに伴う計り知れないプレッシャー。業盛の苦悩は、現代社会における「二代目」「後継者」が直面する課題にも通じるものがあります。
- 若きリーダーの奮闘と悲劇: 若くして大きな責任を担い、懸命に奮闘するも、時代の大きな流れや圧倒的な力の前に、志半ばで挫折せざるを得ないという現実。若者の挑戦を社会全体でどう支え、見守っていくべきかを考えさせられます。
- 変化の不可避性と喪失の受容: 時代は常に移り変わり(春風)、かつて盤石に見えたものや、大切にしていたものが失われる(梅も桜も散る)ことは避けられません。その変化と喪失という現実を、嘆くだけでなく、どう受け止め、向き合っていくか。業盛の句は、静かな受容という一つの心のあり方を示しています。
- 「名」とは何か、後に残るものの価値: 肉体や組織、財産といった有形のものは滅びても、「名」(人々の記憶に残る評判、語り継がれる生き様、あるいは精神的な遺産)は残る可能性があります。私たちは、自分の人生を通じて、どのような「名」を後世に、あるいは身近な人々の心に残したいのか、という問いを投げかけられます。
- 故郷への思い、場所への愛着: 自分が生まれ育った場所、あるいは人生の重要な時間を過ごした場所(箕輪の山里)への愛着や思い入れは、人のアイデンティティや心の拠り所を形作る上で、非常に重要な要素です。故郷や地域コミュニティとの繋がりを大切に思う気持ちの尊さを、改めて感じさせます。
- 滅びの中の美学: 敗北や滅亡という悲劇的な結末の中にも、潔さや美しさを見出す感性。業盛の句が持つ、春の夕暮れのような儚くも美しい情景は、物事の終わり方や、散り際の美学について考えさせます。
名将・長野業正の遺志を継ぎ、若くして武田信玄の猛攻に立ち向かい、故郷・箕輪城と運命を共にした長野業盛。その辞世の句は、滅びゆくものの言いようのない哀しみと、その中に漂う儚い美しさを、私たちに静かに伝えています。「梅も桜も散りはてて」――その言葉は、人生の無常と、それでもなお心に残り続ける大切なものについて、深く思いを巡らせるきっかけを与えてくれるようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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