本名は古田重然。通称は左介といいます。戦国武将として大名にまでなりましたが、戦功よりも茶人として有名な武将です。織田信長が美濃を平定したあとに信長の家臣となりました。信長の口利きで摂津・茨城城主、中川清秀(仙石秀久)の妹と結婚します。
信長の死後は羽柴秀吉に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国攻めなど、主要な戦いに参加しています。秀吉が関白になると、従五位下・織部正に任命されて、三万五千石の所領を与えられました。名前の織部は官位に叙任されたことに由来しています。
秀吉が関白になる頃の筆頭茶頭は千利休でした。利休は豊臣政権に深く関わり政治的影響力をもっていましたが、秀吉と間柄が悪くなり、最終的に秀吉は利休に対し切腹を命じます。利休亡きあと、織部が豊臣家の筆頭茶人に任命されました。利休と織部は茶人としての力量はもちろん、多くの武将から慕われていて影響力もありました。
わび茶を作り上げた利休は、粗末で質素、つつましい茶室の佇まい、茶道具の一つまでこだわり、精神性を追求したもので、それまでもてはやされていた必要でないものを全て削ぎ落としています。利休が愛用したり作らせたりした品々は「利休好み」と呼ばれ人気を集めます。自然な姿に美しさを求める心。卓越した利休の美意識が新しい茶の湯を示し、身分や主従ではなく、今在ることに感謝する気持ちが大切だと考えていました。
織部は利休のもとで、「人と違うことをせよ」と学び、利休の茶道を継承しつつ、織部は独自の解釈をもって織部流という自由な気風の流派を確立します。 利休が作り上げる自然の美ではなく、自ら作り上げる美をもとめ、茶器製作、建築、造園など茶器の収集と作成に執念を燃やし、「織部好み」と呼ばれる流行を生み出します。故意に形をゆがませた遊び心。一度完成した茶碗をわざと壊して継ぎ合わせ、傷にさえ美しさを見いだす破調の美。不均衡さが美しいと感じる作品が様々に伝えられています。織部が用いた茶碗は、ひょうきんなものという意味でヒョウゲモノと称され新しい価値観を求める時代の中で評判となります。
利休の生み出す「静」に対して、織部は正反対の「動」を貫いた茶人でもあり、利休の弟子の中でも異彩を放つ人物でもありました。一杯の茶を差し上げる。それだけのことですが、それを含んだ全てのことに没頭しています。
利休が切腹に追い込まれたとき、利休には多くの門弟や交友関係にあった武将がいましたが、秀吉の勘気に触れることを恐れ、京を追放される利休を見送りにいったのは、織部と細川忠興の二人だけでした。織部は細川忠興とともに利休の死の間際に手作りの茶杓をもらいます。織部は自分が命名した「泪」(なみだ)細川忠興は茶杓「命」(ゆがみ)です。織部は「泪」を位牌に見立て黒塗りの筒を作り、そこに四角い窓を開け拝み続けたと伝えられています。
秀吉亡きあと織部は、関が原の合戦で徳川家康について所領を安堵されます。家康に仕えた織部は二代将軍徳川秀忠の茶道指南役となりますが、権力に屈しない茶人としての行動を繰り返していました。大坂夏の陣の際に豊臣氏と内通していたという謀反の疑いをかけられて切腹を命じられると、一切の言い訳をせずその生涯を閉じます。織部と利休の美に対する追求心と圧倒的な感覚、権力者に媚を売ろうとせずに自身の美を貫き通す頑固な一途さは二人に共通していました。
影響力を恐れられ、疑いをかけられても一言も釈明をせずに切腹した織部と利休は、自分の信念を曲げませんでした。
人は信念に基づいて動いています。信念を一言で表現すると思い込みです。人生の方向を決めてしまうくらい影響の大きなものです。やればできるという信念を持っている人は、できたことをたくさん覚えています。反対にできないという思い込みがあると、自分で無理だと言ってしまいます。
それぞれ立場があり、関心を持っている内容も違うので、人によって信念は違いますが、信念を変えることで、人生を変えることもできます。信念が強固なものになっていけば、自分の信念に沿った行動をとる必要がでてきます。ビジネスの世界に置き換えても、信念の強さが勝負を決めます。強い信念は、さまざまな悪条件を抱えていても、願望を実現する力に変えていきます。
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