本多重次 日本一短い手紙です。

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名将の名言

本多重次は、1530年に現在岡崎市宮地町に生まれました。幼名を八蔵と言います。重次は幼き七歳の時から松平清康に仕えました。以降広忠・家康と三代にわたって仕え続けます。
三河平定後の1565年に、天野康景、高力清長とともに最初の「三河三奉行」に任ぜられ民政に携わりました。
重次は勇猛果敢、剛毅、正直な気質で家康に対しても真っ向から謀言していました。
三方ヶ原の戦いは、三万の武田軍によって徳川軍は総崩れとなり、重次は身に数ヶ所の傷を受け身動きできない瀕死の状態でした。
主君・家康が死にもの狂いで退却するのを見ると、重次は力を振り絞って敵を振り払い、騎馬一頭を奪って家康の後を追い、家康が逃げ切るまで守り抜きました。
また、長篠の戦いでも多くの敵首を挙げます。重次のずば抜けた戦いぶりを見て、「鬼作左」、「鬼殿」と呼ばれるようになりました。
そして長篠の戦いの陣中から妻に向けて手紙を送りますが、この手紙が日本一短い手紙でした。

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一筆啓上 火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ

お仙とは重次の長男、仙千代(越前丸岡藩の初代藩主である本多成重の幼名です)
手紙の故事を記念した碑が越前丸岡城にあります。
重次は簡潔明瞭な手紙でもわかるように、仕事も非常に能率的でした。
その能力は戦いだけではなく民政においても発揮。新領駿河国の兵糧の備蓄、政務などに尽力します。
1586年に徳川家康が豊臣秀吉の要請に応じて上洛した際、秀吉の母である大政所が人質として岡崎に下向したときに、井伊直政とともに大政所を守護しましたが、大政所の居館の側に薪を積み、京都に変事が起れば、ただちに火をつける態勢をととのえ、家康に何かあったときのために備えました。
小田原征伐の後、秀吉が駿府城で今宵一夜宿陣のため加藤遠江守を通じて三度呼ばれても、重次は応じませんでした。さらに、岡崎城見参御免の事件などのため、豊臣秀吉の逆鱗に触れたと言われています。
豊臣秀吉から徳川家康に対して、重次殺害の命が下されましたが、徳川家康は重次を隠して病死したと報告し、上総国古井戸に閑居処分としました。徳川家康は豊臣秀吉に遠慮して、重次に与えた知行は僅か三千石でしたが、重次は家康に対して一言も不平を言いませんでした。
度々秀吉の怒りを買っていた重次は下房国相馬郡井野で亡くなりました。享年六十八歳。

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