戦国時代、数々の勇猛な武将たちが戦場を駆け巡りましたが、その一方で、歴史の表舞台には大きく名が出なくとも、忠義を尽くし、静かに散っていった武士たちも数多く存在します。鳥居景近(とりい かげちか)も、そうした武将の一人と言えるかもしれません。遠江国(現在の静岡県西部)の国人領主として、徳川家康に仕え、強大な武田信玄の侵攻に立ち向かった人物です。
野田城の戦いという激戦の中で命を落としたとされる景近。その最期に遺されたとされる辞世の句は、戦の勇猛さや無念を語るのではなく、先に逝った大切な人を偲び、自らの死を秋の自然の情景に重ね合わせる、繊細で物悲しい調べを帯びています。
先立ちし 小萩(こはぎ)が本の 秋風や 残る小枝の 露誘(さそ)うらん
家康に仕え、信玄と戦った武将:鳥居景近
鳥居景近の出自や前半生に関する詳しい記録は多くありませんが、遠江国の国人領主であり、元々は駿河・遠江を支配していた今川氏に属していたと考えられます。しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川氏の勢力が大きく衰退すると、三河国(現在の愛知県東部)で独立を果たした徳川家康の影響力が遠江にも及び始めます。景近も、井伊谷(いいのや)三人衆(近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時)ら遠江の他の国人領主たちと共に、今川氏を見限り、徳川家康に仕える道を選んだとされます。鳥居一族は元々三河の出身であり、家康の祖父・松平清康の代から松平氏(徳川氏)と深い繋がりがあったため、景近の帰属も自然な流れであったのかもしれません。
景近が歴史の記録にその名を留めるのは、元亀3年(1572年)から天正元年(1573年)にかけての、武田信玄との激しい戦いにおいてです。当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄は、京都を目指して大規模な西上作戦を開始。その進路上にあった遠江・三河は、徳川家康にとって最大の試練の時を迎えていました。元亀3年末の三方ヶ原の戦いで家康自身が大敗を喫するなど、徳川領は信玄率いる武田軍の猛攻に晒され、風前の灯火とも言える状況でした。
天正元年(1573年)2月、武田信玄は三河国の国境近くにある野田城(現在の愛知県新城市)を包囲します。この城は、徳川方の菅沼定盈(すがぬま さだみつ)が城主でしたが、家康は城の防衛力を高めるため、援軍を送っていました。鳥居景近も、この野田城を守る徳川軍の武将の一人として、籠城戦に参加していたと考えられています。
野田城の籠城戦は熾烈を極めました。武田軍は力攻めだけではなく、金堀り衆(鉱山技術者)を使って城の地下水脈を探り当て、水源(水の手)を断つという、当時としては珍しい戦術を用いました。これにより城内は深刻な水不足に陥り、兵士たちの士気は大きく低下したと伝えられます。約1ヶ月にわたる籠城の末、野田城はついに開城・降伏します。鳥居景近は、この野田城の戦いにおいて、奮戦の末に討ち死にした、あるいは降伏後に亡くなったとされています。詳しい最期の状況は不明ですが、強大な武田軍を相手に、主君家康のために最後まで戦い抜いたことは確かでしょう。(なお、この野田城攻めの最中に、城内から聞こえる笛の音に聞き惚れていた武田信玄が狙撃されたという逸話があり、信玄の死期を早めた一因とも言われています。信玄はこの後、西上作戦を断念し、甲斐へ引き返す途上で病没しました。)
秋風と露、亡き人への思い
武田軍との激しい籠城戦の中で、死を覚悟した鳥居景近。その胸に去来したのは、戦の勝敗や武士としての名誉よりも、先に逝ってしまった大切な人への深い思いでした。「先立ちし 小萩が本の 秋風や 残る小枝の 露誘うらん」。
「先にこの世を去ってしまった、あの可憐な小萩(こはぎ=亡き人の比喩。萩は秋の七草の一つ)が眠っているであろうあたりに、物悲しい秋風が吹いているなあ。その風が、まるで後に残されたこの私(=小萩の茂みの中の小さな枝)の命(=枝葉に宿る露)を、あの人のいる場所へと優しく誘(いざな)っているかのようだ」。
「小萩」が具体的に誰を指すのかは、今となっては知る由もありません。愛する妻であったのか、あるいは早くに亡くした子であったのか、または先に戦場で散った親しい友人や同僚であったのかもしれません。いずれにせよ、景近の心の中で非常に大きな位置を占め、深く愛惜していた存在であったことが、この句から痛いほど伝わってきます。死を目前にして、景近の心を満たしていたのは、その亡き人への尽きることのない追慕の念でした。
そして、その切ない思いは「秋風」と「露」という、日本の古典和歌以来、儚さや物悲しさを象徴する自然の情景に託されます。「秋風」は、ただ寂しさや終焉の気配を運んでくるだけでなく、まるで亡き人が待つあの世からの迎えの風、魂を誘う風のようにも感じられています。「露」は、草葉の上で朝の光を受け、きらめきながらも、次の瞬間には消え去ってしまう、はかない命そのものの象徴です。先に逝った愛しい「小萩」のもとに吹く秋風が、後に残った「小枝」である自分に宿る「露」(=命)を、静かに、そして優しく誘い、消し去っていく――。景近は、自らの死を、そのような自然の摂理に則った、静かで美しい情景として捉え、受け入れようとしているのです。
そこには、戦に敗れたことへの激しい抵抗や、敵への憎しみ、あるいは死への恐怖といった感情はほとんど見られません。むしろ、先に逝った愛しい人のもとへ自分も行くのだという、ある種の安らぎや、運命への静かな受容が感じられます。戦国の世の厳しさの中にも確かに息づいていた、人間的な深い情愛と、自然の移ろいに寄り添う繊細な心が、この短い一句に凝縮されていると言えるでしょう。
鳥居景近の辞世の句は、戦乱の世を生きた一人の武士の、個人的で繊細な心情を伝えると共に、現代を生きる私たちにも、心に留めておきたい大切なメッセージを投げかけます。
- 故人を偲ぶ心とその力: 先に亡くなった大切な人を思い、偲ぶ気持ちは、残された者の心を慰め、悲しみを乗り越える力を与え、時に生きる意味や死生観にも影響を与えます。景近が最期に「小萩」を想ったように、故人との精神的な繋がりを心の中に持ち続けることの価値を改めて感じさせます。
- 死生観の多様性と受容: 死を単なる恐怖や絶望的な終わりとして捉えるだけでなく、先に逝った愛しい人のもとへ行く旅立ち、あるいは秋風に誘われる露のような自然な摂理への回帰として、静かに受け入れるという死生観。景近の句は、私たちが死とどう向き合うかについて、多様な視点があることを示唆しています。
- 自然との共感と心の癒し: 悲しみや寂しさ、あるいは人生の大きな転機や終焉に際して、自然の風景や移ろいに自らの心を重ね合わせることで、感情が整理されたり、慰められたり、あるいは物事を達観できたりすることがあります。景近が秋風や露に自らの運命を見たように、自然は時に、言葉を超えた深い共感と癒やし、そして真理への気づきを与えてくれます。
- 儚さを受け入れる美意識: 人の命は「露」のようにはかないものです。その避けられない儚さを認識し、嘆くだけでなく、むしろその中に美しさや尊さを見出し、静かに受け入れるという態度は、日本人が古来から培ってきた美意識の一つかもしれません。限りあるからこそ、その存在や一瞬が愛おしく、輝きを放つという考え方です。
- 歴史の中の個人の思いに寄り添う: 歴史は、年表や事件、英雄たちの物語だけで構成されているわけではありません。その陰には、景近のような名もなき(あるいはあまり知られていない)一人ひとりの人間の、個人的な喜びや悲しみ、愛や別れの物語が無数に存在します。そうした個々の人間の繊細な思いに想像力を働かせ、寄り添うことが、歴史をより深く、より人間的なものとして理解することに繋がります。
徳川家康に仕え、強大な武田信玄軍と戦い、野田城にその命を散らした鳥居景近。その辞世の句は、戦国の世にあっても変わることなく息づいていた、亡き人を深く想う心と、自らの死を自然の移ろいに重ねて静かに受け入れる、繊細で美しい魂の響きを私たちに伝えています。「秋風」に誘われる「露」のように、景近の命は儚く消え去りましたが、その最期に詠まれた歌は、時代を超えて私たちの心に染み入り、深い余韻を残すようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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