幕末の京都には、二つの治安維持組織がありました。浪士集団から成り上がり、派手な活躍でその名を知られた「新選組」。そしてもう一つ、彼らとは対照的に、徳川幕府直参の旗本・御家人で構成されたエリート集団「京都見廻組」。その組頭として、幕府の権威を脅かす者たちに冷徹な刃を振るい、歴史の闇にその名を刻んだ男がいます。その名は、佐々木只三郎(ささき たださぶろう)。
彼は、幕末史最大のミステリーである「坂本龍馬暗殺(近江屋事件)」の実行犯として、その名が最も有力視される人物です。しかし、その生涯は謎に包まれた部分が多く、彼の人物像は「暗殺者」という一面だけでは語れません。この記事では、徳川家への絶対的な忠誠を胸に、汚れ仕事を一手に引き受け、時代の転換点に殉じた最後の剣客・佐々木只三郎の孤高の生涯と、その行動に込められた武士の矜持に迫ります。
佐々木只三郎とは:徳川に尽くした「静かなる剣」
佐々木只三郎は、新選組の近藤勇や土方歳三のような下級武士や農民出身者ではありません。彼は、代々徳川家に仕える旗本の家に生まれた、生粋のエリート武士でした。剣術においては、自ら「神道精武流」を興すほどの達人であり、その腕前は当代随一と謳われていました。
彼が率いた京都見廻組は、身分や出自もバラバラだった新選組とは異なり、全員が幕臣としての誇りを持つ者たちで固められていました。そのため、彼らの任務は、壬生浪士組と呼ばれた新選組が担当した市中のチンピラや不逞浪士の取り締まりというより、幕府の政策に直接反抗する大物志士の監視や暗殺といった、より政治的なものでした。佐々木は、その「汚れ仕事」を遂行する、幕府の静かな、しかし最も鋭利な刃だったのです。彼は感情を表に出さず、ただ黙々と、主君の敵を排除することにその生涯を捧げました。
幕府の「影」として:歴史の裏舞台での暗殺剣
佐々木の剣が歴史の表舞台で大きく影を落としたのは、二つの重要な暗殺事件でした。
清河八郎の暗殺
新選組の前身である「浪士組」を結成した張本人、清河八郎。彼は当初、幕府のために浪士を集めると見せかけ、その実、浪士組を尊王攘夷の先兵として利用しようと画策していました。この裏切りに気づいた幕府上層部は、清河の抹殺を決定。その実行者に選ばれたのが、佐々木只三郎でした。文久3年(1863年)、佐々木は江戸・麻布一の橋で、仲間と共に清河を斬殺。これは、幕府の秩序を乱す者には容赦しないという、彼の冷徹な職務遂行能力を世に示す最初の事件となりました。
近江屋事件と「坂本龍馬暗殺」
そして慶応3年(1867年)11月15日、京都・近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かに襲撃され、命を落とします。幕末史を揺るがしたこの大事件の実行犯については、今なお様々な説があります。しかし、明治時代になって、元見廻組隊士であった今井信郎が「自分たちが実行犯であり、その指揮を執ったのが佐々木只三郎であった」と告白したことから、見廻組犯行説が最も有力とされています。
大政奉還を成し遂げ、徳川家を新しい政治体制の中に組み込もうと画策する龍馬の動きを、佐々木ら強硬な佐幕派は「徳川家を貶める裏切り行為」と見なしたのかもしれません。「幕府を終わらせようとする男」坂本龍馬は、彼にとって斬るべき「敵」以外の何者でもなかったのです。事件の真相は今なお闇の中ですが、彼の立場とこれまでの行動を考えれば、その刃が龍馬に向かった可能性は極めて高いと言えるでしょう。
戊辰戦争と壮絶な最期:忠義に殉じた武士の死
龍馬暗殺からわずか2ヶ月後、時代は戊辰戦争へと突入します。鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、佐々木は当然のように旧幕府軍として参戦。銃弾が飛び交う新しい時代の戦場にあって、彼は刀を手に、最前線で戦い続けました。
しかし、淀千両松の戦いで、腰に銃弾を受けるという致命傷を負ってしまいます。彼は大坂の病院へと運ばれましたが、傷は深く、数日後に静かに息を引き取りました。享年37歳。最後まで徳川家への忠義を貫き、幕府という組織と運命を共にするかのような、壮絶な最期でした。
佐々木只三郎の名言集:行動で示した「絶対的忠誠」
佐々木只三郎は、その生涯において多くの言葉を残した人物ではありません。彼は思想家ではなく、あくまで実行者でした。彼の信念や哲学は、言葉ではなく、その一振り一振りの剣筋と、命を懸けた行動そのものに込められています。
「今にして事を挙げずんば、幕府の威光は地に墜ちる」
これは、清河八郎の暗殺や坂本龍馬の暗殺といった、彼の行動原理を代弁する言葉と言えるでしょう。彼は、個人的な怨恨や功名心で剣を振るったわけではありません。全ての行動は、ただひたすらに「地に墜ちゆく徳川幕府の権威を守る」という一点に集約されていました。たとえそれが、歴史の流れに逆らうことであっても、彼は自らの任務を疑うことはなかったのです。
「見廻組の務めは、ただ主家の敵を討つのみ」
新選組が時に内部抗争や派手な市中見回りでその存在感を示したのに対し、佐々木率いる見廻組は、あくまで幕府の「影」に徹しました。その職務に私情を挟まず、与えられた命令を冷徹に遂行する。この言葉は、彼のプロフェッショナルとしての、そして徳川家への奉公人としての揺るぎない覚悟を示しています。
まとめ:歴史の闇に消えた、不器用なまでの忠臣
佐々木只三郎の生涯は、坂本龍馬という「時代の寵児」とはまさに対極にありました。新しい時代を創ろうとした龍馬に対し、佐々木は滅びゆく古い秩序を守るために、その全てを捧げました。その生き方は、不器用で、融通が利かず、時代の変化を読むことができなかったのかもしれません。
しかし、彼が貫いた「主君への絶対的な忠義」という武士の美学は、紛れもなく本物でした。善悪や功罪では測れない、一人の武士の純粋なまでの忠誠心。坂本龍馬を斬ったとされるその剣は、日本の歴史を大きく変えましたが、彼自身は歴史の表舞台に立つことなく、幕府という巨大な船と共に沈んでいきました。佐々木只三郎は、歴史の闇に咲き、そして散っていった、最後の徒花だったのかもしれません。
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