戦国時代の動乱は、武士たちだけでなく、雅やかな都に生きる公家たちの運命をも大きく揺るがしました。戦火を逃れ、地方の有力大名を頼って都落ちする公家も少なくありませんでした。二条良豊(にじょう よしとよ)も、そんな時代に翻弄された若き公達(きんだち)の一人です。摂政・関白を輩出する最高位の家柄・二条家に生まれながら、西国の雄・大内義隆を頼って山口に滞在中、その大内家の内紛に巻き込まれ、わずか16歳(またはそれ以下)で非業の最期を遂げました。
武士のような死への覚悟や達観とは異なり、良豊が遺したとされる辞世の句は、若くして理不尽に命を奪われることへの、抑えきれない強烈な恨みと無念さが、痛いほどに伝わってくる慟哭の歌です。
秋風や 真葛(まくず)が原に 吹き荒れて 恨(うら)みぞ残る 雲の上まで
都の名門から、悲劇の地へ:二条良豊の短い生涯
二条良豊は、公家の中でも最高の家格とされる五摂家(ごせっけ)の筆頭、二条家の当主・二条尹房(ただふさ)の子として、天文5年(1536年)頃に京都で生まれたと考えられています。本来であれば、都の雅やかな文化の中で育ち、将来は朝廷において高い地位に就くことも約束されていたはずの、まさに「雲の上」の存在でした。
しかし、良豊が生きた時代は、応仁の乱(1467年~1477年)以降、京都も戦乱と荒廃が続き、公家たちの生活は困窮を極めていました。経済的な基盤を失い、また身の安全を確保するため、多くの公家が地方の有力な守護大名や戦国大名を頼って、都を離れて下向(げこう)していました。
二条家もまた、周防国(現在の山口県)を本拠とし、当時西国随一の勢力と豊かな文化を誇っていた大内義隆を頼りました。義隆は京都文化への憧憬が強く、都から下ってきた公家たちを積極的に保護し、歓待しました。そのため、大内氏の本拠地・山口は「西の京」と呼ばれるほどの文化的な繁栄を見せていました。若き二条良豊も、父・尹房と共に、この山口の地で、都とは異なる環境ながらも、大内氏の庇護のもと、公家としての教育を受け、日々を過ごしていたと考えられます。
しかし、その比較的穏やかであったかもしれない日々は、天文20年(1551年)、突如として終わりを告げます。大内義隆の重臣であった陶晴賢(すえ はるかた)が、主君に対して謀反の兵を挙げたのです(大寧寺の変)。義隆は抵抗するも虚しく山口の館を追われ、長門国(現在の山口県長門市)にある曹洞宗の寺院・大寧寺へと逃れます。
この時、二条良豊も父・尹房と共に、義隆の逃避行に付き従っていました。しかし、頼るべき大寧寺もすぐに陶晴賢の軍勢に包囲されてしまいます。もはや逃れる術はないと悟った大内義隆は、自害を決意。そして、その混乱と殺戮の場において、二条良豊と父・尹房もまた、陶軍の兵士たちの手にかかり、無残にも殺害されてしまいました。公家であり、まだ未来ある若年であった良豊にとって、それはあまりにも理不尽で、残酷極まりない最期でした。
天を衝く恨みと無念
武家の内紛という、自らとは直接関係のない争いに巻き込まれ、異郷の地で若くしてその尊い命を奪われることになった二条良豊。その胸中に渦巻いていたであろう、やり場のない激しい感情が、この辞世の句には凝縮されています。「秋風や 真葛が原に 吹き荒れて 恨みぞ残る 雲の上まで」。
「まるで人の心の荒廃や、この世の乱れを映し出すかのように、物寂しい秋風が、葛(くず)が生い茂り荒れ果てた野原(=この殺伐とした最期の地、あるいは秩序の失われた世の中そのもの)に、容赦なく吹き荒れている。この理不尽な死に対する私の無念な思い、この深い恨みは、雲のはるか上、天上にまで、いや私が本来いるべきだった都の空にまで届くほどだ!」。
この句は、先に紹介した大内義隆や、共に殉死した黒川隆像の辞世の句に見られたような、仏教的な達観や静かな諦観とは全く対照的です。「秋風」や「真葛が原」といった言葉は、和歌においてはしばしば寂しさや無常を表すために用いられますが、ここでは良豊が直面している絶望的な状況、そして乱れた世の中への嘆きを象徴する、荒涼としたイメージとして強く響きます。
そして何よりも衝撃的なのが、「恨みぞ残る 雲の上まで」という、一切の躊躇も飾りもない、ストレートな感情の爆発です。若くして、何の罪もなく、武士たちの身勝手な争いの犠牲となることへの激しい憤り。雅やかな都での平穏な暮らしを奪われ、縁もゆかりもない異郷の地で、非業の死を遂げなければならないことへの深い無念。そのやるせない、あまりにも強い恨みの情念が、「雲の上まで」届くほどに深いのだと、良豊は魂の底から叫んでいるのです。「雲の上」は、文字通り天上の神仏を指すと同時に、良豊が本来属していたはずの高貴な公家の世界を指し、そのような本来あるべき秩序の世界にまで、この理不尽な死への恨みが響き渡るのだ、という痛切な思いが込められているのかもしれません。
死を静かに受け入れる諦めではなく、死に抗い、自らの運命とそれを強いた世の中を呪うかのような激しい感情。そこには、これから先の人生があったはずの若者の、断ち切られた未来への無念と、生への強い執着が、痛々しいほどに伝わってきます。
二条良豊の短い生涯と、恨みに満ちた辞世の句は、戦乱の時代の非情さを私たちに突きつけるだけでなく、現代社会を生きる上でも、様々なことを考えさせられます。
- 理不尽な暴力と声なき声の重み: 戦争や紛争、あるいはテロや犯罪など、現代社会においても、何の罪もない人々が理不尽な暴力によって命を奪われたり、人生を破壊されたりする悲劇は後を絶ちません。良豊の句は、そうした犠牲者の声なき声、その抑えきれない怒りや深い悲しみに、私たちが真摯に耳を傾け、共感することの重要性を示しています。
- 若くして絶たれる命のかけがえのなさ: これから多くの夢や希望、可能性を秘めていたであろう若い命が、暴力や争い、あるいは事故や病によって突然奪われることの、計り知れない悲劇と喪失感。良豊の無念の叫びは、今を生きる私たちに、命の尊さ、そして一日一日を大切に生きることの意味を改めて問いかけます。
- 怒りや恨みという感情との向き合い方: 悲しみや怒り、恨みといった負の感情は、人間にとって自然な反応です。それを無理に押し殺したり、否定したりするのではなく、時には良豊のようにそれを言葉にして表現することが、心のバランスを保つ上で必要になる場合もあります。ただし、その感情に囚われ続けないための知恵もまた必要です。
- 時代の波に翻弄される人々の存在を忘れない: 社会が大きく変化する時や、政治的・経済的な混乱の時代には、良豊のように、自らの意図とは関係なく、運命に翻弄され、苦難を強いられる人々が必ず存在します。そうした人々の存在に思いを馳せ、歴史の教訓として学び、より公正で安定した社会を目指す努力が求められます。
- 自分の居場所やアイデンティティへの思い: 「雲の上」という言葉に込められたかもしれない、本来いるべき場所、あるいは自分が属するべきコミュニティへの思い。自分のアイデンティティや帰属意識、そして安心して自分らしくいられる居場所を持つことが、人間にとってどれほど大切であるかを感じさせます。
都の公達として生まれながら、戦国の動乱という時代の渦に巻き込まれ、異郷の地で短い生涯を無念のうちに終えた二条良豊。その辞世の句は、達観や諦観とは対極にある、生への強い執着と、理不尽な死への激しい恨みに満ちています。しかし、その痛切なまでの叫びは、美しさや潔さだけではない、戦乱の世のもう一つの真実、すなわち奪われた命の重みと、犠牲となった人々の声なき声を、私たちに強く訴えかけてくるのです。「恨みぞ残る 雲の上まで」――その言葉は、歴史の陰で声なく消えていった無数の魂の代弁として、私たちの心に深く、そして重く刻まれます。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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