戦国時代の九州で、キリシタン大名・大友宗麟のもと、重臣として活躍しながらも、後に主家に反旗を翻し、流転の末に非業の最期を遂げた武将がいます。その名は、高橋鑑種(たかはし あきたね)。(※立花道雪と共に大友家を支え、岩屋城で壮絶な討死を遂げた高橋紹運(じょううん、鎮種)とは別人です。)
かつては筑前国(現在の福岡県西部)の要衝、岩屋城・宝満城を任されるほどの有力武将であった鑑種。しかし、一度歯車が狂い始めると、その人生は大きく揺れ動き、最後は亡命先で討たれるという結末を迎えます。そんな波乱万丈の生涯の終わりに、高橋鑑種が遺したとされる辞世の句は、人生の儚さと、死をも自然の摂理として受け入れる、深い達観の境地を示しています。
末(すゑ)の露(つゆ) もとの雫(しづく)や 世の中の おくれさきたつ ならひなるらん
大友氏重臣から謀反、そして流浪へ:高橋鑑種の生涯
高橋鑑種は、豊後国(現在の大分県)を本拠とする戦国大名・大友氏の重臣として、大友義鑑(よしあき)、そしてその子・宗麟(そうりん)の二代に仕えました。大友氏が北九州においてその勢力を確立していく過程で、鑑種は筑前国の要である岩屋城(福岡県太宰府市)と宝満城(同)の城督(じょうとく:城代、軍事司令官)という重要な役職を任されます。この地位は、筑前支配における軍事・行政の要であり、鑑種は立花道雪、臼杵鑑速(うすき あきすみ)らと共に、対毛利氏、対秋月氏などの最前線において、大友氏の勢力維持と拡大に大きく貢献しました。まさに大友家中枢の一翼を担う重鎮でした。
しかし、永禄10年(1567年)頃、長年大友氏に仕えてきたはずの高橋鑑種は、突如として主君・大友宗麟に対して謀反の兵を挙げます。その原因については、宗麟が寵愛する家臣への個人的な不満、あるいは大友氏の勢力拡大に伴う統制強化への反発、さらに中国地方の毛利元就からの調略に応じた、または筑前での独立を目指した野心など、様々な説が唱えられており、その真相は定かではありません。いずれにせよ、この鑑種の反乱は、立花道雪らの活躍によって鎮圧され、失敗に終わりました。
謀反に失敗した高橋鑑種は、大友氏から追われる身となり、長年拠点としてきた筑前国を離れざるを得なくなります。その後、鑑種はかつての敵であった筑前の秋月種実(あきづき たねざね)や、中国地方の毛利氏などを頼り、庇護を求める亡命生活を送ることになりました。かつて大友氏の重臣として権勢を振るった日々とは程遠い、不遇で不安定な日々であったことでしょう。
流浪の末、鑑種は筑後国(現在の福岡県南部)の柳川城主であった蒲池鑑盛(かまち あきもり、後に鎮漣と改名する人物の父)を頼ります。しかし、大友氏は依然として鑑種の存在を許さず、その抹殺を狙っていました。天正7年(1579年)、大友宗麟からの強い圧力があったためか、あるいは蒲池氏自身の判断か、鑑種は滞在していた居館で蒲池氏の手勢によって討たれてしまいました。享年は50歳前後と考えられています。主家に背き、流浪の果てに迎えた、寂しい最期でした。
露と雫、生死のならい
大友氏の重臣としての栄光から一転、謀反人として追われ、流浪の果てに討たれるという、数奇で波乱に満ちた運命を辿った高橋鑑種。その最期に詠まれたとされるのが、「末の露 もとの雫や 世の中の おくれさきたつ ならひなるらん」という句です。
「草葉の末(すえ)にきらめき、やがて消えゆく露(=儚い私の命、あるいは人の一生という存在)も、元をたどれば天から降り注いだ一滴の雫(=全ての生命の根源、あるいは先祖から連綿と続く流れ)に還っていくのだろうか。この世の中というものは、人に遅れて世を去る者もいれば、先に旅立つ者もいる。それもまた、あらかじめ定められた習わし、自然の道理というものなのだろうなあ」。
この句からは、自らの死を冷静に受け止め、人生や生死について深く達観しようとする鑑種の心境がうかがえます。「末の露」という言葉には、自らの命の儚さ、そして人生の終着点にいることへの静かな認識が示されています。しかし、それを単なる虚しい消滅としてではなく、「もとの雫」へと還る、大きな自然の循環の一部として捉えようとしているかのようです。そこには、自己の存在をより大きな文脈の中に位置づけようとする視線が感じられます。
そして、「おくれさきたつ ならひなるらん」という後半の句には、人の生死の順番は人知を超えた「ならひ(習わし、定め、運命)」であるという、深い諦念が込められています。先に逝った多くの戦友や、あるいは後に残していく者たちへの思いを馳せつつ、自らの死もまた、その抗うことのできない大きな流れの中の必然であると、静かに受け入れているのです。そこには、かつて主家に背いたことへの激しい後悔や、討たれることへの強い恨みといった感情はもはや昇華され、むしろ落ち着いた、穏やかな境地が広がっているかのようです。
栄光と挫折、そして長い亡命生活という経験を経て、高橋鑑種は人生の無常、そして生と死の理(ことわり)を深く悟るに至ったのかもしれません。
波乱の人生の末に、静かな達観の句を遺した高橋鑑種の生き様は、変化が激しく予測不可能な現代を生きる私たちにも、人生や死生観について深く考えるヒントを与えてくれます。
- 栄枯盛衰と人生の波を受け入れる: 人生には良い時もあれば悪い時もあり、状況は常に変化します。鑑種のように、栄光の時もあれば、失意の底を味わうこともあるのが人生の常です。そうした人生の波、栄枯盛衰をあるがままに受け入れることが、変化の激しい現代を柔軟に生き抜く上で大切かもしれません。
- 達観した死生観を持つ: 死は誰にでも平等に訪れる自然な出来事であり、その時期や順番も様々です。「おくれさきたつ ならひ」と捉えることで、死への過度な恐怖や不安から解放され、今ある「生」をより大切に、より穏やかな気持ちで生きることができるかもしれません。
- 自分の根源(ルーツ)との繋がりを思う: 「末の露」が「もとの雫」に繋がっているように、自分という存在もまた、親や先祖、あるいは自然や宇宙といった、より大きな存在や流れの一部であると意識すること。それは、時に感じる孤独感を和らげ、自分の存在意義を再確認するきっかけになるかもしれません。
- 過去の選択の結果を受け入れる: 人生における過去の選択が、現在の状況を作り出しています。鑑種は謀反という大きな選択をしました。その結果を、後悔や恨みで終わらせるのではなく、最終的に静かに受け止め、最期を迎える。その潔さ(あるいは諦め)も、人生の一つの区切りのつけ方として考えさせられます。
- 自然の摂理に学ぶ心のあり方: 「ならひ(習い)」という言葉が示すように、人間の世界の出来事だけでなく、自然界の法則や摂理に目を向けることで、物事をより大きな視点から捉え、心を落ち着けるヒントが得られることがあります。
大友氏の重臣から一転、謀反人として流浪の生涯を送り、最後は討たれるという数奇な運命を辿った高橋鑑種。その辞世の句は、人生の無常と、死をも自然の定めとして静かに受け入れる深い達観を示しています。「末の露」が「もとの雫」へと還るように、ただ定められた習いに従って生と死があるのだという鑑種の言葉は、私たちの心に、人生の儚さと、それを受け入れることによって得られるかもしれない静かな強さについて、深く問いかけてくるようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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