戦国時代、西国に比類なき栄華を誇った大名、大内義隆(おおうち よしたか)。本拠地・山口は「西の京」と称され、明との貿易で得た富を背景に、きらびやかな大内文化が花開きました。義隆自身も和歌や連歌に通じた一流の文化人でした。
しかし、その栄華は長くは続きません。ある挫折をきっかけに政治への意欲を失った義隆は、信頼していた家臣・陶晴賢(すえ はるかた)の謀反に遭い、非業の最期を遂げることになります。栄華の頂点から滅びの淵へ。その劇的な最期に、大内義隆が遺したとされる二つの辞世の句は、恨みと達観という、相反する感情が生々しく交錯しています。
さかならぬきみのうき名を留めをき 世にうらめしき春のうら波
(さかならぬ きみのうきなをとどめおき よにうらめしき はるのうらなみ)
討人も 討るゝ人も 諸共に 如露亦如電 応作如是観
(うつひとも うたるるひとも もろともに にょろやくにょでん おうさにょぜかん)
西国の覇者から悲劇の当主へ:大内義隆の光と影
大内義隆は、周防国(現在の山口県)を本拠とした守護大名・大内氏の第16代当主として家督を継ぎます。当初は、父・義興の遺志を継ぎ、北九州への勢力拡大を図るなど、戦国大名としての覇気を見せていました。また、勘合貿易(日明貿易)を掌握し、莫大な富を背景に、山口には京から多くの公家や文化人を招き、ザビエルにキリスト教の布教を許可するなど、国際色豊かで洗練された「大内文化」を開花させました。義隆自身も文芸に深く親しみ、自ら和歌や連歌を嗜む一流の文化人でした。
しかし、天文11年(1542年)の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)での大敗北が、義隆の運命を大きく変えます。この戦いで養嗣子・大内晴持を失った義隆は、深く傷心し、以後は政治や軍事への関心を急速に失っていきます。そして、ますます文化的な活動や公家との交流に耽溺するようになり、現実から目を背けるかのように山口の繁栄と雅な世界に閉じこもっていきました。
この義隆の変化は、家臣団の間に深刻な亀裂を生みます。義隆が側近である文治派の相良武任(さがら たけとう)らを重用する一方、長年大内家を武力で支えてきた武断派の重臣・陶晴賢(当時は隆房)らは、主君の軟弱化と政治の混乱に強い不満を募らせていきました。両派の対立は、もはや修復不可能な段階に達していました。
そして天文20年(1551年)、ついに陶晴賢が「君側の奸(くんそくのかん:主君のそばにいる悪臣)を討つ」という名目で謀反を起こします(大寧寺の変)。義隆はなすすべもなく山口を追われ、長門国(現在の山口県長門市)の曹洞宗寺院・大寧寺に追い詰められます。そこで、陶軍に包囲される中、もはやこれまでと覚悟を決め、妻子と共に自害しました。享年45。西国に栄華を誇った名門大内氏は、この謀反によって事実上滅亡し、その領国は後に毛利元就に奪われることになります。
二つの辞世に込められた心境:恨み、そして無常観
家臣の裏切りによって、栄華の座から転落し、死を目前にした大内義隆。その胸中には、どのような思いが去来していたのでしょうか。遺された二つの辞世の句は、その複雑な心境を鮮やかに物語っています。
まず、和歌「さかならぬ きみのうき名を留めをき 世にうらめしき 春のうら波」。解釈には諸説ありますが、有力な説としては「(もし謀反などに)逆らわなければ、君(=自分、あるいは陶晴賢)の不名誉な評判を残すこともなかっただろうに。なんと恨めしいことか、春の浦に寄せる波よ(「春」は陶晴賢の「晴」に通じ、「うら波」は「恨み」と掛けている?)」といった意味に取れます。ここには、信頼していた家臣に裏切られたことへの激しい恨み、無念、そして自らの招いた不名誉な結末に対する後悔、そういった人間的な感情が生々しく表れています。
一方で、もう一つの漢詩「討人も 討るゝ人も 諸共に 如露亦如電 応作如是観」は、仏典『金剛経』にある有名な四句偈(しくげ)の一部を引用したものです。「人を討つ者も、討たれる者も、結局は皆同じこと。朝露のように、稲妻のように、儚く消え去るものなのだ。この世における一切の現象(万物)は、そのように観ずるべきである」。
ここでは、和歌で見せた激しい感情は昇華され、敵も味方も、勝者も敗者も、生も死も、全ては等しく儚いものであるという、仏教的な無常観に基づいた深い達観が示されています。文化人であり、仏教にも造詣が深かった義隆が、最後に心の拠り所とした境地と言えるでしょう。迫りくる死を前にして、全てを受け入れようとする静かな覚悟が感じられます。
恨みや無念といった人間的な苦悩と、それを乗り越えようとする宗教的・哲学的な諦観。大内義隆は、この二つの相反する思いを同時に抱えながら、最期の時を迎えたのかもしれません。それは、栄華と挫折、文化と武、理想と現実の間で揺れ動いた、義隆の生涯そのものを象徴しているかのようです。
栄華を極めながらも、家臣の謀反によって滅び去った大内義隆の生涯と、二つの辞世の句は、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えます。
- 挫折との向き合い方: 大きな失敗や挫折を経験した時、人はどのように立ち向かうべきか。義隆のように現実から目を背け、過去の栄光や自分の世界に閉じこもるのではなく、そこから何を学び、どう乗り越えていくかが問われます。
- リーダーシップのあり方: 組織のリーダーは、異なる意見を持つ部下たちとどう向き合い、組織全体をまとめていくべきか。義隆の悲劇は、一方の声に耳を傾けすぎたり、現場とのコミュニケーションを怠ったりすることの危険性を示唆しています。現実を見据えたバランス感覚と、多様な意見に耳を傾ける姿勢が重要です。
- 栄枯盛衰の理: どれほど栄華を極めても、それは永遠には続かないという世の常。大内氏のあっけない滅亡は、成功に驕ることなく、常に変化を意識し、備える必要性を教えてくれます。
- 負の感情との向き合い方: 裏切りに対する怒りや恨みは、人間として自然な感情です。しかし、それに囚われ続けるのではなく、義隆が金剛経の句に心の平穏を見出そうとしたように、より大きな視点から物事を捉え、負の感情を乗り越えようとする精神的な努力もまた、人間にとって大切なのかもしれません。
西国の地に絢爛たる文化を花開かせながら、家臣の裏切りによって悲劇的な最期を遂げた大内義隆。その辞世に込められた恨みと達観は、人生の光と影、そして抗うことのできない無常の流れを、私たちに深く考えさせます。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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