維新の思想的源流・藤田東湖の名言|西郷隆盛も心酔した水戸学の巨人

幕末の人物

幕末の動乱期。歴史の表舞台で活躍したのは、薩摩や長州の志士たちでした。しかし、彼らを突き動かした「尊王攘夷」という思想の炎を、理論の力で燃え上がらせた一人の学者がいたことを忘れてはなりません。

その名は、藤田東湖。水戸藩主・徳川斉昭の懐刀として、また水戸学の大成者として、彼の思想は藩の垣根を越え、西郷隆盛をはじめとする多くの志士たちに決定的な影響を与えました。この記事では、幕末日本の思想的源流となりながらも、志半ばで非業の死を遂げた巨人・藤田東湖の生涯と、その魂の叫びともいえる名言、そして彼の代表作である「正気歌」を深く掘り下げていきます。

藤田東湖とは:尊王攘夷を体系化した水戸学の麒麟児

藤田東湖は、単なる学者ではありませんでした。彼は、その学識を現実の政治に活かし、国家を変革しようとした情熱的な思想家であり、実践者でした。彼の思想の根幹には、父・藤田幽谷から受け継いだ「水戸学」があります。これは、日本の国体、すなわち万世一系の天皇を国家の中心に据えることの絶対的な正当性を説き、神国日本を守るためには、外国勢力を打ち払う「攘夷」が不可欠であるとする思想でした。東湖は、この水戸学をさらに発展させ、幕末の志士たちが行動するための、強力な理論的支柱を築き上げたのです。

水戸学の継承者として

1806年、水戸学の大家であった藤田幽谷の次男として生まれた東湖は、幼い頃からその才能を見せ、父の死後、二十歳で家督を継ぎます。彼はすぐに学者として頭角を現し、父に劣らぬ才能で、水戸藩の学問の中心的存在となりました。彼の周りには、後の藩主・徳川斉昭の師となる会沢正志斎など、多くの俊英が集まり、水戸藩は尊王攘夷思想の一大拠点となっていきました。

藩主・徳川斉昭との固い絆

東湖の生涯を語る上で、水戸藩主・徳川斉昭の存在は欠かせません。当時の水戸藩では、藩主の跡継ぎを巡り、正当な継承者である斉昭を推す改革派と、将軍家から養子を迎えようとする保守的な門閥派とが激しく対立していました。この時、まだ若き東湖は改革派の中心人物として斉昭擁立に尽力し、見事に成功させます。これにより、斉昭は東湖に絶大な信頼を寄せ、東湖もまた、斉昭こそが自らの理想を実現できる名君であると確信。二人は、君臣という関係を超えた、固い絆で結ばれた同志となったのです。

藩政改革の光と影:理想と現実の狭間で

藩主となった斉昭の側近として、東湖は藩政改革にその手腕を振るいます。しかし、その急進的すぎる思想は、やがて大きな反発を招くことになりました。

斉昭の右腕としての改革断行

東湖は、斉昭が進める軍制改革などを中心となって補佐しました。その一環として、青銅製の大砲を鋳造する計画が持ち上がります。しかし、その材料を調達するため、斉昭と東湖は過激な手段に打って出ました。藩内の寺院から、仏像や梵鐘を強制的に供出させたのです。

廃仏毀釈と突然の失脚

水戸学は、神道を尊ぶあまり、仏教を軽んじる傾向がありました。この「廃仏毀釈」ともいえる強引な政策は、仏教界だけでなく、幕府や藩内の保守派からも猛烈な批判を浴びます。これが原因となり、1844年、斉昭は幕府から隠居・謹慎を命じられ、東湖もまた、蟄居処分となり、政治の表舞台から完全に姿を消してしまいました。理想を追求するあまり、現実との調和を欠いた彼らの改革は、大きな挫折を経験することになったのです。

黒船来航と国政への復帰:日本の思想的中心へ

数年間の蟄居生活を経て、1852年にようやく処分を解かれた東湖。その翌年、彼の知識と見識を、日本中が必要とする事態が発生します。ペリー率いる黒船の来航です。

国難と斉昭の幕政参与

未曾有の国難に直面した幕府は、卓越した見識を持つ徳川斉昭を海防問題の担当として幕政に参与させます。そして斉昭は、蟄居中の東湖を江戸に呼び寄せ、再び自らの側近として側に置きました。東湖は、斉昭の顧問として、幕府の外交・国防政策に大きな影響を与えることになります。

志士たちの灯台:西郷隆盛との出会い

この時期、江戸にあった東湖の屋敷には、彼の教えを請うために、全国から多くの志士たちが訪れました。尊王攘夷の思想的指導者として、東湖の名は天下に轟いていたのです。その中には、若き日の薩摩藩士・西郷隆盛もいました。西郷は東湖との出会いに深く感激し、「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内を最も尊敬している」と後に語っています。東湖の思想が、薩摩の西郷という、後の維新の立役者へと確かに受け継がれた瞬間でした。

安政の大地震:あまりにも早すぎる巨星の死

国難にあたり、まさにその才能が最も必要とされた矢先、東湖の人生はあまりにも突然、そして悲劇的な形で幕を閉じます。1855年10月2日、江戸を巨大な地震が襲いました。「安政の大地震」です。地震発生時、東湖は一度は屋敷の外へ避難しました。しかし、火鉢の火を心配した母が家の中へ戻ろうとしたため、それを制止し、自らが付き添って屋敷に戻ります。その瞬間、家屋が崩壊。東湖は咄嗟に母をかばい、梁の下から突き出して脱出させましたが、自らは下敷きとなり、圧死してしまいました。享年50。母を救うための、孝行心に満ちた、あまりにも壮絶な最期でした。

東湖の魂の叫び:名言と「正気歌」

彼の言葉や詩には、国家の危機に際して、日本人がいかに在るべきかという、彼の切なる願いが込められています。

「国難襲来す 国家の大事といえども 深慮するに足らず 深慮すべきは  人心の正気の足らざるにあり」
(外国が攻めてくるという国難は、確かに大事ではある。しかし、本当に深く憂慮すべきは、それに対して日本人の心から正しい精神(正気)が失われていることだ。)

「正気歌」に込められた日本の精神

この「正気」の思想を、日本の歴史上の偉人たちの行動に重ね合わせ、壮大に詠い上げたのが、彼の代表作である「正気歌」です。蟄居中に作られたこの詩は、多くの志士たちの心を奮い立たせました。

天地正大の氣、粋然として神州に鍾る。
秀でては不二の嶽となり、巍巍として千秋に聳ゆ。
注いでは大瀛の水となり、洋々として八洲を環る。
発いては萬朶の桜となり、衆芳與に儔し難し。
凝つては百錬の鐵となり、鋭利鍪を断つべし。
藎臣皆熊羆、武夫盡く好仇。
神州孰か君臨す、萬古、天皇を仰ぐ。
皇風六合に洽く、明徳太陽に侔し。
世、汚隆無くんばあらず、正氣時に光を放つ。
乃ち参す大連の議、侃侃、瞿曇を排す。
乃ち助く明主の断、焔焔、伽藍を焚く。
中郎嘗て之を用ひ、宗社磐石安し。
清丸嘗て之を用ひ、妖僧肝胆寒し。
忽ち揮ふ龍口の剣、虜使頭足分る。
忽ち起す西海の颶、怒涛妖氛を殱くす。
志賀、月明の夜、陽はに鳳輦の巡を為す。
芳野戦酣なるの日、又代る帝子の屯。
或は投ぜらる鎌倉の窟、憂憤正に愪愪。
或は伴ふ櫻井の駅、遺訓何ぞ慇懃なる。
或は狥ふ天目山、幽囚、君を忘れず。
或は守る伏見の城、一身、萬軍に當る。
承平二百歳、斯の氣、常に伸ぶるを獲たり。
然れども其の欝屈するに當りては四十七人を生ず。
乃ち知る人亡ぶと雖も、英霊未だ嘗て泯びず。
長く天地の間に在り、稟然彜倫を叙づ。
孰か能く之を扶持す、卓立す東海の濱。
忠誠皇室を尊び、孝敬、天神に事ふ。
修文と奮武と、誓つて胡塵を清めんと欲す。
一朝天歩艱み、邦君身先づ淪む。
頑鈍、機を知らず、罪戻孤臣に及ぶ。
孤臣、葛藟に困しむ、君冤誰に向つてか陳べん。
孤子墳墓に遠ざかる、何を以て先親に謝せん。
荏苒二周星、獨り斯の氣の随ふあり。
嗟、豫萬死すと雖も、豈汝と離るるに忍びんや。
屈伸天地に付す、生死又奚ぞ疑はん。
生きては當に君冤を雪ぐべし、復見ん四維の張るを。
死しては忠義の鬼と為り、極天皇基を護らむ。

『和文天祥正氣歌』(現代語訳)
正気の顕現と日本の偉大さ
天地に満ちる正大の気(公明正大で宇宙の根本をなすエネルギー)は、その粋(すぐれた純粋な部分)を凝らしてこの神州(日本)に集まっている。
地に秀でては、不二の嶽(富士山)となり、堂々として永遠にそびえ立つ。
流れては、大瀛の水(大海原の水)となり、豊かにあふれて日本の八洲(日本全体)をめぐっている。
開けば、萬朶の桜(幾万もの枝に咲く桜の花)となり、他のどの花もこれに匹敵することはできない。
凝(こ)り固まっては、百錬の鐵(幾度も鍛え抜かれた鋼)となり、その鋭利さは冑(かぶと)さえ断ち割ることができるだろう。
忠愛心の厚い臣(家臣)は皆、熊羆(ゆうひ、強く勇ましい獣)のように強く、武士たちは皆、好仇(よき仲間、よきライバル)である。
この神州に誰が君臨されているのかといえば、それは萬古(遠い昔から永遠に)仰ぎ尊ぶ天皇である。
天皇の御稜威(みいつ、威光)は六合(りくごう、天地と四方を合わせた宇宙、世界)にあまねく広がり、その明徳(明らかで偉大な徳)は太陽に等しい。

歴史における正気の輝き
世の中には衰えたり盛んになったりの浮き沈みが必ずあるが、その時々に正気は光を放つ。
たとえば、大連(おおむらじ、古代の朝廷の重職)が仏教の導入をめぐる議に参加し、侃侃(かんかん、剛直で屈しない態度)として瞿曇(くどん、釈迦、仏教)を排斥した(物部尾輿・守屋らのこと)。
たとえば、明主(かしこい君主、崇仏派の蘇我氏を指すか)の決断を助け、焔焔(えんえん、炎が燃え盛るように激しく)と伽藍(がらん、寺)を焚いた(蘇我入鹿のことか)。

中郎(藤原鎌足を指すか)が嘗てこの正気を用いたことで、宗社(国家)は磐石(ばんじゃく、不動の岩)のように安泰となった。
清丸(和気清麻呂を指すか)が嘗てこの正気を用いたことで、妖僧(道鏡)は肝胆寒し(恐れおののいた)。
ある時には、龍口の剣(日蓮を指すか)を一気に揮(ふる)って、虜使(蒙古からの使者)の頭と足を分断した(日蓮が蒙古来襲を予言し、国難に立ち向かった気概か)。
ある時には、西海の颶(ぐ、激しい風、元寇時の神風を指す)を忽ち起こし、怒涛(激しい波)が妖氛(ようふん、不気味な気配、敵の軍勢)を滅ぼし尽くした。
志賀(滋賀の都、大友皇子を指すか)の月明の夜には、公然と鳳輦(ほうれん、天皇の乗り物)の巡幸に付き従い(壬申の乱における大友皇子の近臣か)。
芳野(吉野、南朝の所在地)で戦いが酣(たけなわ)になった日には、また帝子の屯(天皇の世継ぎの軍勢)に代わって戦い守った(南北朝時代の忠臣たちか)。

或る者は鎌倉の窟(くつ、牢屋)に投ぜられ、憂憤(うれいや怒り)はまさに愪愪(しんしん、心に満ちている)であった(日蓮か、あるいは楠木正成・新田義貞の近親者か)。
或る者は櫻井の駅(宿場)で伴(とも)をし、遺訓(故人の教え)はなんと慇懃(いんぎん、丁寧で心が行き届いている)であったか(楠木正成が子の正行と今生の別れを告げた故事)。
或る者は天目山で狥(したが)い死にし(主君の後を追って死に)、幽囚(ゆうしゅう、閉じ込められた身)にあっても主君を忘れなかった(武田勝頼の近臣か)。
或る者は伏見の城を守り、その一身で萬軍に対抗した(鳥居元忠を指すか)。

正気の不滅と斉昭公への期待
承平(天下が治まっていること)が二百年続いた(江戸時代)が、この正気は常に伸びることを得た。
しかし、その正気が欝屈(うっくつ、ふさぎこんで伸び悩む)するに当たっては、四十七人(赤穂浪士)を生み出した。
ここから、人(個々の人間)は滅びるとしても、英霊(すぐれた人の魂)は嘗て滅びることはないのだと知られる。
英霊は長く天地の間にあって、稟然(りんぜん、堂々とした様子)と彜倫(いりん、人が守るべき道徳)を立て続けている。

作者の決意
それならば、今日、誰がこの正気を支え保つことができるだろうか。
それは、卓立(ひときわ抜きんでて立っている)している東海の濱(水戸藩)の人物(徳川斉昭公)である。
斉昭公は忠誠をもって皇室を尊び、孝敬をもって天神(先祖の神々)に仕えている。
修文(学問を修めること)と奮武(武を奮い起こすこと)をもって、胡塵(こじん、外国からの侵略)を清め払おうと誓っている。

ところが、一朝(ある日突然)、天歩(てんぽ、天下の情勢、あるいは天皇の歩み)が困難になり、邦君(斉昭公)は身先づ淪む(まず真っ先に失脚し、謹慎させられる)。
頑鈍(がんどん、道理を知らない愚か者、幕府の重鎮を指す)は、この機(国家の大事)を知らず、罪戻(ざいらい、罪と咎め)は孤臣(作者自身、藤田東湖)にまで及ぶ。
この孤臣は葛藟(かつるい、かずら、つた)のように絡(から)み合って困しむ(苦しんでいる)が、主君の君冤(くんえん、無実の罪)を誰に向かって訴えることができようか。
孤子(子を失った者、あるいは孤独な臣)は墳墓(父や先祖の墓)から遠く離れているが、何を以て先親(亡き父、藤田幽谷)に謝罪できようか。
荏苒(じんぜん、月日がだらだらと過ぎる)すること二周星(二年)が経ち、ただこの正気だけが私に付き従ってくれている。

ああ、私は萬死す(何度死んでも)悔いはないが、どうしてこの正気と離れるに忍びられようか。
屈伸(進退、時勢に従うか否か)は天地に委ね、生死についてまた何を疑うことがあろうか(覚悟はできている)。
生きていれば、まさに主君の君冤を雪(そそ)ぐべきであり、四維(しい、礼義廉恥の四つの綱紀)が再び張られるのを見届けよう。
死んでしまえば、忠義の鬼(忠誠を尽くす霊魂)となり、極(限りなく)天皇の基(皇室の礎、国家)を護り抜こう。

「回天詩」に詠まれた不屈の志

三決死矣而不死。二十五回渡刀水。
五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。
邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。
自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。
嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。
苟明大義正人心。皇道奚患不興起。
斯心奮発誓神明。古人云斃而後已。

(現代語訳)
三度死を決意したが死ぬことはできなかった。苦難の道を何度も渡ってきた。閑静な地を五度求めたが、それも叶わなかった。三十九年の人生で七度も居を移した。国家が栄えたり衰えたりするのは偶然ではないし、人生の成功不成功もまた無意味なものではない。我が身が俗世の塵にまみれていることには驚くが、それでも忠義の心は骨の髄まで満ちている。昔の偉大な英雄のようにはなれないかもしれない。しかし、大義を明らかにし、人々の心を正しく導くことさえできれば、天皇の道が再び盛んにならないことをどうして憂うだろうか。この心を奮い立たせ、神明に誓う。古の賢人が言ったように、死ぬまでこの志を貫き通すだけだ。

まとめ:維新の思想的源流として

藤田東湖は、自らの手で新しい時代を創り上げることはありませんでした。しかし、彼が体系化した水戸学、そして彼が「正気」と呼んだ、日本の国体を尊び、忠義を尽くすという思想は、幕末の志士たちの心に、燃え盛る火を灯しました。彼は、剣を振るうことはありませんでしたが、そのペンと言葉は、何万の軍勢よりも強く、時代の流れを大きく変える力を持っていたのです。もし、彼があの大地震で命を落とさなければ、その後の歴史はどう変わっていたか。それは誰にも分かりません。しかし、彼が維新の「思想的源流」であり、その精神が今なお日本の根底に流れ続けていることだけは、間違いのない事実です。
この記事を読んでいただきありがとうございます。

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