岩崎弥太郎の名言集です。

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幕末の人物

岩崎弥太郎といえば、武士から実業家に転身して、三菱の創業者として非常に有名です。大企業となった三菱ですが、そのルーツとは。
岩崎弥太郎は1835年、土佐に生まれます。幼いころから文才を発揮して、頭脳明晰だったようです。
十二歳ときには儒者小牧米山に弟子入りして、さらに小牧氏の紹介で、土佐藩随一の学者である吉田東洋の門下生となっています。十四歳の時には当時の土佐藩主であった山内豊熈に漢詩を披露してその才能を認められます。二十一歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学します。
江戸へ出てわずか一年で父親が酒の席での喧嘩により投獄されました。知らせを受けた弥太郎は帰藩して父親の免罪を安芸郡奉行所に訴えます。その訴えは通らず「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によりて決す」と奉行所の門柱に落書きしたことにより弥太郎自身も投獄されてしまいました。
獄中で同房の商人から算術や商法を学び、今後の弥太郎の基礎を気づく経験となります。出獄後は吉田東洋の少林塾に入塾。
少林塾では後に明治政府で逓信大臣や農商務大臣を歴任する後藤象二郎と出会います。自由民権運動で有名な板垣退助なども通っていました。
吉田東洋は藩内の産業育成と海外貿易のために、長崎に市場調査団を派遣します。調査団の一員に、東洋は弥太郎を抜擢します。
さらに東洋の推挙によって藩の下級役人である下横目役として登用されました。下横目役の役割は、藩の過激派である土佐勤王党の監視や脱藩浪士の探索などです。弥太郎は下横目の役割をこなしながら、市場調査団として派遣された長崎に、たびたび出かけて海外事情を学びます。
1862年に先生であった吉田東洋が暗殺されてしまいます。東洋は、土佐藩の大目付という役職で、土佐の藩政改革を行っていました。東洋が行った改革は、門閥打破や殖産興業、軍制改革に開国貿易等、のちの明治政府で行われるような、当時としては斬新な改革でした。しかし、保守派勢力は土佐勤労党から危険視され、暗殺されてしまったのです。
弥太郎はその犯人の探索で同僚の井上左市郎とともに藩主の参勤交代に同行する形で大坂へ赴きますが、必要な届出に不備があり、土佐へと呼び戻されてしまいます。しかし、この間に同行した井上が暗殺されてしまいます。犯人は吉田を暗殺した人物と同じ岡田以蔵といわれています。弥太郎は九死に一生を得ることになりました。
三菱商会設立 
吉田東洋亡きあとの藩内で実力をつけた後藤象二郎に藩の商務組織である土佐紹介の長崎居留守訳に抜擢されます。藩の貿易や経理を担当します。土佐紹介が閉鎖されると、今度は開誠館大阪出張書へ。翌年、大阪商会は九十九紹介と改称し、弥太郎は海運業に従事します。
明治6年には、後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手すると、海運業を始めます。九十九紹介を解消し、「三菱商会」を設立。弥太郎が経営する個人企業となります。
三菱商会では身分の差による差別はなく、士族出身の社員に対しても商人としての教育を徹底しました。
新政府が貨幣法を交付する前後、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを聞きつけた弥太郎は、大量の藩札を買い占めます。そしてそれを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ます。この情報を流したのは後藤象二郎であり、その後も弥太郎と三菱商会は政商として暗躍します。
明治7年の台湾出兵に際しても軍事輸送を引き受け、政府の信頼を得ます。明治10年にも西南戦争で輸送業務を独占して大きな利益を上げます。中には三菱が国賊であるという批判もありましたが、それに対して弥太郎は「三菱を焼き払っても構わないが、それで政府は大丈夫なのか」と反論。いかに三菱商会が政府と結びついているかをアピールしました。
大久保利通が暗殺、大隈重信が失脚すると、三菱商会にとって大きな後援者を失います。これに乗じて渋沢栄一や三井財閥の益田孝などの反三菱財閥性勅が投資しあって、共同運輸会社を設立して三菱に対抗します。こうしたライバルとの競争の中で弥太郎は五十一歳で亡くなりました。
岩崎弥太郎の名言です。

小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ。

部下を優遇し、事業の利益はなるべく多く彼らに分け与えよ。

人材の育成は学問のある者を積極的に用いよ

自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。ゆえに事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ。

無駄をなくすということは、口に出して言うのは簡単でも、実行するのは難しい。これは昔も今も、人々のひとしく悩みとするところである。余分な人員を整理し、無駄な費用を省き、精魂を尽くして本社の基礎を固め、相手に負けないだけの体制を築いてこそ、はじめてこちらの勝利が期待できる。

およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。

小事にあくせくするものは大事ならず。ひとたび着手せし事業は必ず成功を期せ。決して投機的な事業を企てるなかれ。国家的観念を持って全ての事業に当たれ。

一日中、川の底をのぞいていたとて、魚はけっして取れるものではない。たまたま魚がたくさんやってきても、その用意がなければ、素手ではつかめない。魚は招いて来るものでなく、来るときに向かうから勝手にやってくるものである。だから魚を獲ろうと思えば、常平生からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生全ての機会を捕捉するにも同じ事がいえる。

酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。

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