桂小五郎(木戸孝允)の名言集です。

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幕末の人物

木戸孝允とは、明治政府の中心人物として活躍した人物です。幕末の活躍を語るのであれば、桂小五郎と紹介した方が適切かもしれません。倒幕の際に長州藩の中心人物となった桂小五郎です。
1833年、長州の萩城の近く和田家の長男として生まれます。幼いころは病弱で、跡継ぎになりそうになかったため七歳で桂家の養子になります。少年時代は悪戯好きの悪童として知られ、いつも萩城近くの川を渡る船をひっくり返して遊んでいたそうです。
十代に入ってからは毛利敬親に即興の漢詩を披露して褒賞を受けるなど、その才能は幼き頃から発揮されていました。
1949年には、吉田松陰に兵学を学びます。この頃の吉田松陰はまだ松下村塾で教鞭をふるう前であり、また桂とも年齢が三歳しか変わらないため、吉田と桂は先生と生徒のような関係ではなく、師弟のような関係でした。付き合いはその後も続き、いつしか親友とも呼べる関係になったそうです。
桂は剣術でもその才能を発揮します。柳生新陰流の道場に入門すると、一年足らずで免許皆伝となります。その腕前は、新選組の近藤勇をして「手も足も出せなかった」と言わせるほどでした。
練兵館筆頭を務める傍ら、ペリーの来航に刺激を受け海外留学を希望するようになります。海外留学の許可を幕府や長州藩が出すはずがなく、さらに吉田松陰が密航を図って投獄されたため海外への夢を一度は諦めます。
法大建造術や造船術、様式補選造船術、英語、常に最先端の西洋兵学を学び、63年には秘密留学生として、井上馨や伊藤博文をイギリスへと送り込みます。
薩長同盟
品川にある英国公使館を焼打ち、外国船への砲撃など長州藩では尊王攘夷運動が活発になってきました。そのため海外からの報復、幕府から京都を追放されるなど、長州藩は次第に幕府から目をつけられるようになります。尊王攘夷派とは真逆を行く公武合体派路線の薩摩とは関係が悪化するばかりでした。
長州も薩摩も倒幕という部分では共通していたので、協力して倒幕ができないかと考えていた人物がいました。その人物とは坂本龍馬です。龍馬は長州と薩摩の代表者を会合させて薩長同盟を結ばせようとしていました。その際の聴衆の代表が桂でした。薩摩の代表は西郷隆盛です。
当時の薩摩藩は幕府と手を組んでいるように見えていたため、桂は非常に西郷のことを警戒していました。二人だけの会合では薩長同盟は成立せずに翌日に龍馬が仲介人となってようやく薩長同盟が成立したほどです。さらに桂は龍馬に同盟の裏書を要求していました。龍馬のことは信用していても同盟を結んだ後も西郷のことは信用していませんでした。
明治政府が成立した後は、岩倉具視とともに欧米を視察します。政治的見識の高さを買われ総裁局顧問専任となりました。桂から木戸孝允へと改名したのもこの頃です。
版籍奉還、廃藩置県、三権分立、二院制の確率、教育の充実、四民平等。憲法制定など様々な政策を行いました。1877年に病床に伏してしまい、闘病もむなしく死去してしまいます。当時は西南戦争のまっただ中であり、当然木戸もその行方を気にしていました。
西郷、いいかげんにせんか
死ぬ直前の言葉は西郷を心配するものだったといわれています。本当に心配していたのは西郷隆盛の行方であり、最後には西郷のことを受け入れていたようです。

桂小五郎(木戸孝允)の名言です。

事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。 人間の魅力なのだ。

人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。

大道行くべし、又何ぞ防げん。

己れの生き方に関わるような大問題を他人に聞くな

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