西郷隆盛といえば、西南戦争の指導者として有名です。上野に銅像があり、一般的な知名度は高いのではないでしょうか。
1828年、薩摩の武士の家に生まれます。十六歳の時に郷中(薩摩藩の学校のようなもの)の仲間とお宮参りに行った際に、他の郷中と友人が喧嘩をしてしまいます。西郷は仲裁に入る者の、上組の抜いた刀が右腕内側の神経を切ってしまいます。一命はとりとめますが、西郷はそれ以降刀を握れなくなってしまいます。そのため、武士の家に生まれながらも武術あきらめなければなりませんでした。それ以降、学問の世界に身を投じます。
恩師の死と一度目の島流し
1854年、薩摩藩主の島津斉彬に見いだされ、参勤交代に同行させてもらえることになりました。53年にペリーが来航して以来、様々な人達が今後の方針について意見を交わしていました。その中でも島津斉彬は公武合体を主張。幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵を図るべしというのが、島津斉彬の意見でした。
自身の娘である篤姫を後続の近衛家に養子に出した後、十三代将軍徳川家定に嫁がせて、篤姫を通して一橋慶喜を十四代将軍に推薦します(当時は、将軍が政治の実権を握っていたものの、何をするにも朝廷の勅許が必要でした)。このように朝廷・幕府の両方から公武合体を実現させようとし、西郷はその計画の手足となり働いていました。
しかし、1858年に井伊直弼が大老に就任すると、十四代将軍に紀伊藩主であった徳川慶福を任命します。島津斉彬とともに一橋慶喜を推していた、松平慶永や徳川斉昭らはこれに反発するも、謹慎処分をくらってしまいます。
島津斉彬も、兵を率いて江戸へ挙兵する計画を立てるものの、挙兵直前で急逝。西郷は島津斉彬の訃報を京都で聞き、後を追って自殺を図ろうとしますが、周りの人に説得され思いとどまります。そして、島津斉彬の意思を継ぎ、幕府から井伊直弼を排斥する計画を次々に実行します。しかし、どれも失敗に終わり、逆に幕府から命を狙われてしまう立場となってしまいます。そのため、薩摩藩も幕府の目をごまかすために、西郷に奄美大島に身を隠すように指示します。
二度目の島流し
薩摩では、島津斉彬が亡き後、実権を握っていたのは島津久光でした。この島津久光は、前藩主の斉彬とは対立しており、斉彬がかわいがっていた西郷のこともあまり快く思っていませんでした。そのため久光が実権を握ってからは、西郷はしばらく薩摩に戻ることはありませんでした。
西郷が復帰したのは61年。奄美大島に身を隠してから3年後でした。久光は彼の独自の路線で公武合体を実現しようと、京都へ向かいます。公武合体派の勢力を広げようとするも、京都につてがなく、大久保利通の推薦により西郷を薩摩へ呼び戻します。しかし、西郷は久光には前藩主斉彬ほどの人望が無いと主張し、久光の反感を買ってしまいます。さらに西郷は薩摩で待機を命じられていたにもかかわらず、京都・大阪の情勢を聞き、命令を破って大阪へ向かってしまいます。これに対し、久光は西郷を徳之島へ幽閉してしまいます。西郷にとって2度目の島流しでした。
次に西郷が呼び戻されたのは64年のことでした。結局久光は公武合体の勢力を拡大するどころか、薩摩の評判は最悪の状態まで陥っていました。これでは京都での活動に支障が出てしまうとし、またもや大久保利通の提案で西郷が呼び戻されました。西郷は京都へ向かい、京都の情勢や薩摩の評判の悪さを聞き驚いてしまいます。薩摩の悪評の原因は、薩摩の外交による物価の高騰であり、西郷は京都にいた薩摩の商人を帰らせるなどして対応しました。
禁門の変
そして、西郷の最大の功績を生んだ事件が発生します。64年、禁門の変です。この事件は長州藩が京都へ挙兵してきた事件です。長州は幕府や薩摩がとっている公武合体路線とはちがい、尊王攘夷路線でした。そのため、池田屋事件や八月十八日の政変などで尊王攘夷派の志士が多く処罰されていました。そして、その講義のため長州は巨とへ挙兵してきたのです。
この事件の際、西郷は幕府側でもなく中立の対千葉に付き、皇居の護衛に専念すべしと主張しました。幕府と薩摩は同じ公武合体路線でしたが、薩摩は朝廷が中心の公武合体、幕府は幕府が中心の公武合体を構想していました。そのため、西郷が考える公武合体の実現のためには、いずれは倒幕が必要だったため、ここでは中立の立場になるべきという考えでした。
そして、実際に長州が、伏見、嵯峨、山崎から京都へ押し寄せ、幕府と衝突すると西郷たちはこれを撃破。さらに別の場所では救援を派遣し、長州撃退をサポートします。これによって、朝廷が長州や幕府に独占されるのを防ぐだけでなく、朝廷を薩摩と同じ中立の立場に引き込むことに成功しました。その後、幕府は長州藩追討を西国21藩に命令して薩摩も出兵に応じます。
このときに西郷は、大阪で勝海舟と出会い、倒幕するのであれば長州に対して強硬するのではなく緩和策をとるべきだというアドバイスを受けました。第一次長州討伐では、幕府の命令通り長州を征伐します。しかし、次の年に行われた第二次長州討伐では、幕府の出兵命令を拒否。その間に坂本龍馬と鹿児島で談合します。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」
66年には、龍馬の紹介で長州藩の桂小五郎と京都で談合します。そして薩長同盟が成立。これまで公武合体路線を取っていた薩摩藩ですが、ここで初めて武力で倒幕するという方針に転換。西郷と久光は対立していたため、久光は西郷の考えに批判的でした。しかしここでようやく西郷の考えが、薩摩藩の藩論となったということです。67年には土佐藩とも薩土密約を結び、いよいよ倒幕へ向けて周りを固めだします。そして、10月14日、徳川慶喜は大政奉還の上奉を朝廷に提出。江戸幕府は終わりを迎えました。
明治6年の政変
明治政府では、西郷は正三位という役職を与えられました。岩倉使節団が渡米中は留守政府を任せられ、官制・軍政の改革、警察の整備などを担当しました。兵武将を廃止し、陸軍省・海軍省を設置、徴兵令に伴って陸軍大将に任命されました。
明治6年、対朝鮮の外交問題について、板垣退助と対立します。板垣が征韓論を唱えているのに対し、西郷は遣韓大使を派遣することを主張。何度も話し合いをした結果、西郷の意見が取り入れられることになりましたが、朝廷は最終的な判断は岩倉たちの帰国を待つという命令を下しました。
そして、帰ってきた木戸孝允、大久保利通、岩倉具視らは、内治優先すべきと主張し、西郷の意見は却下されました。2度目の会議で西郷の意見が取り入れられることになりましたが、それに反対する木戸、大久保らが辞表を提出。結局西郷の意見はなかったことになり、木戸、大久保らも何事もなかったかのように政府に復帰。
結局、西郷は辞任。鹿児島へ帰ることになりました。このあまりにも新政府の理不尽な対応に板垣をはじめ、約600人が辞任する事態となり、この出来事は明治6年の政変と呼ばれる事態となりました。
西南戦争
鹿児島へ帰った西郷は、私学校を設立します。学校と言っても勉強を教えるのではなく、鉄砲学校や砲撃学校など、武器の使い方を教える学校です。当時は廃刀令などが出され、特権が失われたと多くの武士が不満を持っていました。
不満を持った武士たちは新政府軍に攻撃を仕掛けます。これらが、次第に大規模になった西南戦争です。鉄砲などの新しい武器を得た武士は、勢いでどんどん政府軍に攻撃を仕掛けていきますが、数で勝る政府軍が鎮圧していきます。そして、新政府軍は西郷隆盛を追い詰めます。
このへんでよか
自害直前に語ったとされるひとことです。常に人々の人望や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる原動力となりました。
西郷隆盛の名言集
「人間がその知恵を働かせるということは、 国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。そういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追いまわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、 利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、 財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、 結局は日本そのものが滅んでしまうだろう」
人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
急速は事を破り、寧耐は事を成す。
己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ。
人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる。
小人は、己を利することを欲し、 君子は、民を利することを欲する。
我が家の遺法、人知るや否や、 児孫のために美田を買はず。
幾度か辛酸を経て、志、初めて堅し。 丈夫は、玉砕に及んで、瓦全を愧じる。
天は人も我も同一に愛し給ふゆえ 我を愛する心をもって人を愛するなり
世上の毀誉軽きこと塵に似たり。
事に望みては、機会は是非、引き起こさざるべからず
大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず
過ちを改めるにあたっては、自分から誤ったとさえ思いついたら、それで良い。そのことをさっぱり思いすてて、すぐ一歩前進することだ。過去の過ちを悔しく思い、あれこれと取りつくろおと心配するのは、たとえば茶碗を割ってそのかけらを集めてみるのと同様何の役にも立たぬことである。
道は決して多端なものでない。まことに簡単なものである。ただ白と黒の区別があるだけである。心慮りて白と思えば決然として行う。しばらくも猶予すべからず。心慮りて黒と思えば断然これを行わないことである。
功のあった人には禄を与えて、能力のある人には位を与えよ
およそ思慮は平生、黙座静思の際においてすべし。
道は天地自然の未知なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修する克己をもって終始せよ。己に勝つ極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。
功立ち名顕るるにしたがい、いつしか自らを愛する心起こり、恐懼戒慎の意、緩み、驕矜の気、しばらく長じ、その成し得たる事業をたのみ、いやしくも我が事をし遂げんとまずき仕事に陥り、終に敗るるものにて、みな自ら招くなり。ゆえに己に勝ちて、見ず聞かざるところに戒慎するものなり。
思い切ってやりなさい。責任は私がとる
天の道をおこなう者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めても驕(おご)らない。
事に当たり、思慮の乏しきを憂うることなかれ
正論では革命をおこせない。革命をおこすものは僻論である。
万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)を戒(いまし)め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。
然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業はは遂げられ間敷也。
徳に勤むる者は、これを求めずして、財自(おのず)から生ず
敬天愛人(天を敬い、人を愛する)
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