石田三成 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句
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筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

石田三成ほど相反する人物像があり、しかもその評価が曖昧な人物はいません。
かつては豊臣政権中枢で権勢を振るって危うくし、滅亡に導いた奸臣という評価が多数を占めています。ではこうした評価はどのように生み出されてきたのでしょう。
三成は能吏・官僚として高い能力を持ち、賤ヶ岳の戦い直前の大垣の大返しを始めとした多くの戦いで兵站奉行を務め、豊臣軍の迅速な進軍を可能にしています。豊臣政権下では多くの奉行職を務め、堺奉行・博多奉行や九州征伐・奥州征伐後の検地奉行などを歴任して功績を挙げています。また朝鮮出兵においても軍監として従軍しました。
しかし一方で武人としての功績に乏しく、唯一大将を務めた小田原征伐の緒戦である武蔵忍城攻めでは水攻めに失敗して味方に多数の死傷者を出すなど、前述の官僚としての有能さの影響もあり、戦下手という像が造られています。
また三成の負の像として、融通が利かない・傲慢・冷徹といったものがあります。千利休・豊臣秀次の切腹や浅野長政や加藤清正・小早川秀秋を讒言によって追いこみ、利休と秀次を死へ追いやったのは他ならぬ秀吉自身の意志です。
また浅野長政ら三人は朝鮮出兵に反対の立場を取ったことで秀吉自身に粛清された可能性が高く、三成は彼らの動向をありのままに秀吉に伝え、命令を忠実に実行しただけです。三成は秀吉の冷徹な行いの身代わりになって周囲の憎悪を受けることとなりました。こうした姿勢が秀吉の威を借りて傲慢であると捉えられたのかもしれません。
三成自身も非常に不器用な男であり、正直すぎるあまり人望を得られていないということを大谷吉継から指摘されています。それが、関ヶ原の戦いにおいて自身が総大将に就かず、西国の大大名である毛利輝元と宇喜多秀家を担ぎだした所以です。
こうしたことから周囲の誤解を受けることが多くても、三成の不器用ながらも実直で義理堅い面に惹かれた直江兼続・大谷吉継・島左近といった人物が彼に同心したことからその人柄をうかがい知ることができます。
時代の流れとともに評価の変わってきた三成ですが、この先はどういった評価を受けていくことになっていくのでしょう。


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