戦国武将 辞世の句

竹中重治 秀吉への最期の言葉です。

竹中重治、または竹中半兵衛と呼ばれます。竹中重治は1544年、斎藤道三の家臣・遠江守重元の子として生まれました。重治は家督を継ぐと、不破郡一帯に勢力を拡げました。重治が有名になったのは、主家斎藤氏の居城・稲葉山城乗っ取りを企てたときです。原...
戦国武将 辞世の句

豊臣秀次 辞世の句です。

三好吉房と日秀院(羽柴秀吉の姉)の子として1568年に生まれました。織田信長が本能寺の変によって倒れされると、羽柴秀吉は山崎の地にて 明智光秀軍を破りました。英次の初陣はこのときであったといわれています。以降は羽柴秀吉の親族として、織田家に...
戦国武将 辞世の句

佐々成政 辞世の句です。

信長の家臣団には木下藤吉郎や滝川一益など出自がはっきりしない人物が多いことが特徴となっていますが、その中で佐々成政は自前の城と領地を持つ由緒ある武家に生まれています。佐々家は小規模ではありましたが元々尾張比良城を本拠とした領主の家系であり、...
戦国武将 辞世の句

佐久間盛政 辞世の句です。

信長の家臣として活躍し、その猛将ぶりから“鬼玄蕃”と渾名された武将が佐久間盛政です。天文23年(1554年)尾張に生まれた盛政は永禄11年(1568年)に初陣すると越前手筒山城の戦い、野洲河原の戦い、槇島城の戦いに参陣し、180?を超える恵...
戦国武将 辞世の句

真田信繁 辞世の句です。

定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候。我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候。大坂夏の陣直前の3月19日に書かれた小山田茂誠に送った手紙の一節です。明日のこともどうなるかはわかりません。私たちはこの世にいないものと考...
戦国武将の名言

真田信之の名言です。

一番首は自分一人が手柄を立てようという行為だ。だが一番乗りは自分の属する軍全体に勝ちをもたらそうとする行為だ。だから身構えが違う。一番首は敵一人の戦い方に目を向けるが、一番乗りはどこから城壁に取りついて攻めれば、味方を引き入れることができる...
戦国武将の名言

真田信繁(幸村)の名言です。其の三

いざとなれば損得を度外視できるその性根、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はない信繁は恩義のある豊臣家を守るべく大坂の陣の劣勢下でも孤軍奮闘したことは有名です。信繁は寡兵でもって徳川家康の本陣に迫り窮地に立たせます。真田の武名を残したい...
戦国武将の名言

真田信繁(幸村)名言です。其の二

関東勢百万も候へ、男は一人もいなく候大坂夏の陣、道明寺の戦いでの名言です。大阪冬の陣以降、大阪城の堀を埋められた豊臣方は、籠城することが困難になっていました。後藤基次は城を出て徳川軍を迎え撃つことを主張。大和方面から進軍してくる徳川軍に対し...
戦国武将の名言

真田信繁(幸村)の名言です。其の一

部下ほど難しい存在はない人材育成には、[ほめる」「叱る」「教える」ことが必須です。管理職の使命は、部下が成果を上げられるように導くことです。職場のモチベーションは、上司の資質に左右されることが多く、それだけで部下のやる気を萎えさせてしまいま...
戦国武将 辞世の句

足利義輝 辞世の句です。

足利義輝は、室町幕府十三代の将軍です。1536年に、父である十二代義晴の子として生まれました。生まれた後には近衛尚通の猶子(ゆうし・親戚関係にある人や他人と親子の関係になる制度)になりました。子どもの頃から京の地にあって、義輝も政治的ないさ...