金のみで人は動くにあらず
大谷吉継は戦国の世にあって、まれに見る義人として知られます。
石田三成とともに、豊臣秀吉に重く用いられた大名で、数々の武功をあげています。先見の明もあり秀吉の死後、徳川家康に近づきますが、石田三成が徳川家康との戦いを決心します。
三成は親友の吉継に戦に味方してくれるよう呼びかけました。家康とも懇意だった吉継でしたので、家康と戦いたくはなかったと思いますが、吉継はこう答えています。
「あなたは利を使うことに鋭く、それがゆえ太閤に重宝された。だが戦で人間が利のみで動くと思ったら、それは間違いだ。合戦の時、人はその大将の人望と能力で動く。あなたはどれも家康に遠く及ぶまい。しかしそれでも戦をするというのなら、お味方します」
勝ち目のない戦とは知っていても三成とともに戦う決意をします。
関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍を指揮し、大軍を率いる小早川秀秋の寝返りを予期しこれに対応するなど、目覚ましい活躍をみせますが、秀秋の監視役であったはずの脇坂隊・赤座隊・小川隊・朽木隊の四隊が便乗して東軍に寝返り、吉継の部隊は支え切れず壊滅状態になりました。
敗北を悟った吉継は「わしの顔は病で醜くなっておる。首は土深く埋めてくれ。」と部下に言い残し自らの命を絶ったそうです。
敗戦覚悟で三成の味方をすることを決めた吉継は、金銭や恩賞で動く人物ではありませでした。友情に殉じた義の生き方は男性の心をとらえて離しません。
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