戦国時代中期、畿内に強大な勢力を築き上げ、一時は天下の実権を握った三好長慶(みよし ながよし)。その弟として兄を補佐し、三好政権の柱石として文武にわたる活躍を見せたのが、三好義賢(よしかた)、後の実休(じっきゅう)です。勇猛果敢な武将として四国方面の軍事を一手に担う一方、茶の湯や連歌にも深く通じた当代一流の教養人でもありました。
兄・長慶と共に三好家の栄光を築き上げるために戦い続けた義賢(実休)ですが、その生涯は、戦場での突然の死によって、志半ば、わずか36歳で幕を閉じることになります。数々の敵を打ち破り、時には非情な手段も辞さなかったであろう猛将が、自らの死を前にして詠んだとされる辞世の句は、人生の儚さと、自らが行ってきたことへの「報い」からは決して逃れることはできないという、厳しい因果応報の理(ことわり)を深く悟った、揺るぎない覚悟に満ちています。
草枯(くさか)らす 霜(しも)又(また)今朝(けさ)の 日に消えて 報(むくい)のほどは 終(つひ)にのがれず
三好政権を支えた文武両道の将:三好義賢(実休)
三好義賢は、大永7年(1527年)、阿波国(現在の徳島県)の守護代・三好元長(もとなが)の次男として生まれました。兄には、後に足利将軍家を凌駕し、畿内に一大政権を樹立する三好長慶がいます。また、弟には安宅冬康(あたぎ ふゆやす)、十河一存(そごう かずまさ)がおり、この四兄弟はそれぞれの個性と能力を発揮して、三好家の勢力拡大に大きく貢献しました。
義賢は、主に父祖伝来の地である四国(阿波、讃岐など)方面の統治と軍事を担当し、兄・長慶が畿内で中央政権の確立に専念できるよう、背後を固める重要な役割を担いました。阿波や讃岐(香川県)の諸勢力を次々と平定し、三好家の四国における支配を確立。また、紀伊国(和歌山県)の畠山氏や、強力な鉄砲集団として知られた根来衆(ねごろしゅう)とも度々干戈(かんか)を交え、畿内への影響力を保持しようとしました。その武勇は高く評価され、兄・長慶からの信頼も絶大でした。
一方で、義賢は武辺一辺倒の人物ではありませんでした。連歌の会を催し、当代一流の文化人である里村紹巴(さとむら じょうは)らとも親しく交流するなど、深い教養と風流心を持ち合わせた文化人としての一面も持っていました。後に出家して「実休」と号したことからも、仏教への関心も深かったことがうかがえます。まさに文武両道を兼ね備えた、三好政権を支える不可欠な存在でした。
久米田の戦い、突然の死
三好家の権勢が頂点に達し、兄・長慶が事実上の「天下人」として君臨していた永禄5年(1562年)3月、三好義賢(実休)の運命は、戦場での一瞬の出来事によって暗転します。当時、三好氏に敗れて逼塞(ひっそく)していた河内国(大阪府東部)の守護・畠山高政が、再起を図って紀伊国の根来衆などの支援を得て、和泉国(大阪府南部)へと侵攻してきました。
義賢(実休)は、これを迎え撃つべく、自ら軍勢を率いて出陣。和泉国久米田(現在の大阪府岸和田市久米田町)において、畠山・根来連合軍と激突しました(久米田の戦い)。戦いは当初、兵力で勝る三好軍が優勢に進めていましたが、戦闘の最中、敵の鉄砲による狙撃を受け、総大将である義賢(実休)自身がまさかの討死を遂げてしまったのです。享年36。あまりにも突然の、そして早すぎる死でした。大将を失った三好軍は混乱し、総崩れとなって敗走。この予期せぬ敗北は、三好政権にとって計り知れないほどの大きな打撃となりました。
政権の重鎮であり、軍事・政治両面で兄・長慶を支えてきた有能な弟・義賢(実休)の死は、長慶を深く嘆かせ、その心労が後の長慶自身の早逝(永禄7年、1564年)の一因になったとも言われています。そして、義賢(実休)の死は、三好家の内部対立を助長し、その後の急速な衰退へと繋がっていく、大きな転換点の一つとなってしまったのです。
辞世の句に込められた逃れられぬ「報い」
三好家の栄光のために戦い続け、しかし戦場の只中で予期せぬ形で命を落とすことになった三好義賢(実休)。その最期、あるいは討死する直前に詠まれたとされるのが、「草枯らす 霜又今朝の 日に消えて 報のほどは 終にのがれず」という句です。
「草木を容赦なく枯らしてしまうほどの厳しい霜(しも=この世の厳しさ、人生の苦難、あるいは自らが行ってきた非情な戦いや行為)も、今朝昇ってきた太陽の暖かな光を浴びれば、あっけなく消えていく。人の命というものもまた、このように儚(はかな)いものなのだ。しかしながら、自らの過去の行いに対する『報い』(むくい=因果応報の法則、すなわち戦場で命を落とすというこの結末)だけは、どれほど時が経とうとも、結局のところ、決して逃れることはできないのだなあ」。
この句には、まず「草枯らす霜」と「今朝の日に消えて」という自然現象の対比によって、人生における苦難の厳しさと、同時に人の命の根本的な儚さ(無常観)が示されています。どんなに厳しい霜も朝日には消えるように、人の命もまた、いつかは必ず終わりを迎えるのだという、冷静な認識です。
しかし、この句の真髄は、後半の「報のほどは 終にのがれず」という、厳しい自己認識と覚悟にあります。「報(むくい)」とは、仏教思想の中核をなす因果応報の理(ことわり)を指します。すなわち、善い行いをすれば善い結果が、悪い行いをすれば悪い結果が、必ず自分自身に返ってくるという考え方です。義賢(実休)は、自らの戦死という結末を、単なる不運や偶然としてではなく、これまでの人生において、三好家の覇権のために多くの敵を滅ぼし、血を流してきた自らの行い(業、カルマ)に対する、避けられない「報い」として、厳粛に受け止めようとしているのです。
そこには、自己を正当化する言い訳や、敵への恨みといった感情は全く見られません。むしろ、自らの運命を、仏教的な因果の理法という、より大きな秩序の中で捉え直し、その必然性を受け入れようとする、強い覚悟と潔さが感じられます。死への恐怖を超越し、自らの人生とその結末を、客観的かつ厳しく見つめようとする、武人として、そして深い教養を備えた人物としての、精神的な強さがうかがえます。
戦国の世という、まさに「草枯らす霜」のような厳しい現実の中で、覇を競い、敵を滅ぼすことで生き抜いてきた義賢(実休)が、その生涯の最後に到達した、深い諦観と、自らの業(ごう)に対する真摯な自己認識が込められた、重く、そして示唆に富んだ一句と言えるでしょう。
「因果応報」
三好義賢(実休)の辞世の句は、「因果応報」という、現代ではやや馴染みが薄いかもしれない仏教的なテーマを扱っていますが、その根底にある思想や精神性は、複雑な現代社会を生きる私たちにも、多くの示唆を与えてくれます。
- 自らの行動への責任と覚悟を持つこと: 自分の行った行動(言葉や選択も含む)が、良い結果も悪い結果も含めて、将来何らかの形で自分自身や周囲に影響を与える可能性があるという「因果」の視点。これは、日々の行動に対して、より深く考え、自覚的になり、責任ある選択を促す重要な教訓を与えてくれます。
- 過去の行いとその結果を受け入れる強さ: 自分の過去の行い、特にそれが他者を傷つけたり、ネガティブな結果を招いたりした場合、その事実から目を背けずに正直に向き合い、その結果として訪れる現実(報い)を、言い訳や責任転嫁をすることなく、真摯に受け入れるという精神的な強さ、潔さ。
- 運命や宿命と感じられるものとの向き合い方: 人生には、時に自分の力ではどうにもならない、あるいは過去からの積み重ねによって決定づけられたかのように感じられる「運命」や「宿命」とも呼べるような出来事に直面することがあります。義賢(実休)のように、それをある種の必然性を持ったものとして受け入れるという向き合い方も、心を整理し、その状況の中で自分がなすべきことを見出すための一つの方法かもしれません。
- 潔く現実を受け入れ、最期を迎える態度: 自分の限界や、物事の終わり、あるいは人生の終焉を悟った時に、それにみっともなく抗い続けるのではなく、潔く受け入れるという態度。義賢(実休)の辞世には、そうした武士的な美学にも通じる、潔さと精神的な威厳が感じられます。
- 歴史や他者の経験から「理(ことわり)」を学ぶ: 義賢(実休)のような歴史上の人物の生涯や、その最期に残した言葉に触れることは、単に知識を得るだけでなく、人生における普遍的な「理(ことわり)」、すなわち因果の法則や無常の真理、あるいは人間の心のあり方について深く考え、自分自身の生き方を見つめ直すための貴重な機会となります。
三好政権の全盛期を支えながらも、戦場で若くしてその生涯を閉じた文武両道の将、三好義賢(実休)。その辞世の句は、人生の儚さと、自らの過去の行いに対する厳しいまでの自己認識、そして避けられない因果の理を受け入れる強い覚悟を示しています。「報のほどは終にのがれず」――その言葉は、私たちに、自らの行動とその結果に真摯に向き合い、責任を持って生きていくことの重みを、時代を超えて、厳粛に問いかけてくるようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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