露の身の消えなば何の咎あらじ ~筒井定慶、世評に揺れた終焉の諦観~

戦国武将 辞世の句

戦国時代の大和国(現在の奈良県)にその名を轟かせた智将・筒井順慶(つつい じゅんけい)。その跡を継ぎながらも、時代の波に翻弄され、最後は大坂の陣で豊臣方として戦い、敗れて処刑された武将がいます。その名は、筒井定慶(つつい じょうけい)。順慶の養嗣子として名門・筒井家を継承しましたが、家を維持することができず、改易の憂き目に遭いました。

偉大な養父と比較され、世間の噂にも苦しんだかもしれません。そんな定慶が、人生の最期に遺したとされる辞世の句は、自らの儚い身の上と、死によって世間の評判や非難から解放されることへの、複雑な心境を吐露しています。

世の人の 口はに懸(かか)る 露の身の 消えては 何の 咎(とが)もあらじな

名門筒井家の後継者、そして改易へ:筒井定慶の生涯

筒井定慶は、筒井順慶の従弟(一説には甥)にあたり、順慶の父・筒井順昭の弟の子とされています。順慶には実子がいなかったため、定慶が養子として迎えられ、天正12年(1584年)に順慶が36歳の若さで亡くなると、その家督を継承しました。この時、定慶はまだ若年であったと言われています。

時の天下人・豊臣秀吉も、順慶の功績に免じて定慶の家督相続を認め、大和郡山城(奈良県大和郡山市)から伊賀上野(現在の三重県伊賀市)へ20万石で移封(領地替え)しました。これは、大和という重要拠点を豊臣家の直轄に近い形にしたかった秀吉の意向もあったとされますが、定慶にとっては大国の主としてのスタートでした。

しかし、若くして大国の領主となった定慶にとって、その重責はあまりに大きかったのかもしれません。偉大な養父・順慶と比較されるプレッシャーに加え、家臣団を十分に掌握することができず、家中は不安定な状態が続きました。また、定慶自身の素行にも問題があったと伝えられており、遊興にふけったり、家臣を不当に扱ったりしたという逸話も残っています。次第に豊臣秀吉からの信任を失い、それに伴い家中の混乱も収拾がつかなくなっていきました。

そして慶長13年(1608年)、徳川家康の時代になっていましたが、豊臣政権下での素行不良や家中不取締などを理由として、筒井定慶はついに改易を命じられ、全ての領地を没収されてしまいます。これにより、大和国に長く勢力を保った名門・筒井家は、大名家としては完全に滅亡しました。定慶は浪人の身となり、不遇の日々を送ることになります。

大坂の陣、最後の賭けと最期

浪人として、かつての栄光を失い、雌伏の時を過ごしていた筒井定慶に、再び歴史の表舞台に立つ機会が訪れます。慶長19年(1614年)、徳川家康と豊臣秀頼との間の対立が決定的となり、大坂冬の陣が勃発。豊臣家は、全国の浪人たちに呼びかけ、大坂城への籠城を促しました。かつて豊臣家恩顧の大名であった定慶も、この呼びかけに応じ、失地回復、あるいは武士としての最後の意地を賭けて、豊臣方として大坂城に入城します。

翌年の慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣においても、定慶は豊臣軍の一員として戦いますが、豊臣方は徳川軍の圧倒的な軍事力の前に敗北。大坂城は炎上し、豊臣家は滅亡します。定慶は燃え盛る大坂城を脱出し、落ち延びようとしますが、徳川方に捕らえられてしまいました。

そして同年5月、筒井定慶は京都の六条河原において、他の豊臣方の武将たちと共に斬首されました。名門の後継者として期待されながらも家を失い、再起を賭けた最後の戦いにも敗れた、波乱に満ちた生涯の、寂しい幕切れでした。

世評からの解放

処刑を前にして、筒井定慶が遺したとされるのが、「世の人の 口はに懸る 露の身の 消えては 何の 咎もあらじな」という句です。

「世間の人々が何かと噂をし、良いことも悪いことも口の端にのせる、そんなこの露のようにはかなく、頼りない私の身の上だが、この身が消えてなくなってしまえば、もはや誰からも何の罪や過ちを咎められることも、非難されることもなくなるだろうなあ」。

この句からは、定慶が生前、いかに世間の評判や評価(口はに懸る)というものに心を悩ませ、それに苦しんでいたかが痛いほど伝わってきます。偉大な養父・筒井順慶と比較され、「跡継ぎとしての器量がない」と陰口を叩かれたり、伊賀上野での統治ぶりや改易に至った経緯について非難されたり、あるいは浪人中の境遇を憐れまれたり…様々な声が定慶の耳に入り、その心を苛んでいたのかもしれません。「露の身」という言葉には、そうした世評に翻弄され、確かな拠り所を持てなかった自身の存在の儚さ、頼りなさに対する、悲しいまでの自己認識が表れています。

しかし、死を目前にした定慶の心境は、単なる自己憐憫や、世間への恨みだけではありません。「消えては 何の 咎もあらじな」という結びの言葉には、むしろ死によって、そうした生きている間の苦悩やプレッシャー、世間の目や非難から完全に解放されることへの、ある種の安堵感、あるいは全てを投げ出したような開き直りに似た感情が読み取れます。もはや何も言い訳する必要もない、弁明する必要もない、ただ消えていくだけだ、という諦観です。

強い自己肯定や、運命への抵抗といった力強さはありませんが、自らの不遇と世間の評価という現実を受け入れた上で、死という終着点によって全てが清算され、ある種の「無罪放免」(咎もあらじ)となることに、静かな、しかし確かな心の区切りを見出そうとしているかのようです。

家名を継ぐことの重圧に苦しみ、世間の評価に翻弄されながら最期を迎えた筒井定慶の辞世の句は、情報化が進み、他者の目が常に気になる現代を生きる私たちにも、多くのことを考えさせます。

  • 他者の評価との健全な距離感: SNSなどを通じて、他者の評価や評判が常に可視化され、時に過剰に気になってしまう現代。定慶のように、それに心をすり減らすのではなく、ある程度の距離を保ち、「人は言うものだ」と受け流す強さ、そして自分自身の価値観をしっかりと持つことの重要性を示唆しています。
  • 自己受容と「露の身」の自覚: 自分の弱さ、至らなさ、完璧ではない部分(露の身)を認め、受け入れること。過剰な自己肯定も、過度な自己否定もせず、ありのままの自分を認識することが、心の安定と成長の第一歩となります。
  • 失敗や挫折からの精神的な解放: 過去の失敗や挫折(定慶にとっては改易という大きな経験)は、時にトラウマとなり、その後の人生に重くのしかかることがあります。しかし、定慶が死によって「咎もあらじな」と感じたように、人生のある段階で意識的に区切りをつけ、過去の失敗の呪縛から精神的に解放されることも、前を向くためには大切です。
  • 「終わり」がもたらす解放感: 死に限らず、仕事の退職、人間関係の終わりなど、人生には様々な「終わり」があります。それは喪失であると同時に、時に重荷からの解放や、新たな始まりへのきっかけともなり得ます。定慶の句は、終わることに対するネガティブなイメージだけでなく、それがもたらす解放感という側面にも光を当てています。
  • 期待というプレッシャーとの向き合い方: 名門の後継者、親の期待、社会的な役割など、私たちは様々な「期待」というプレッシャーの中で生きています。その期待に応えられない苦しみは、多くの人が経験するものです。定慶の生涯は、そうしたプレッシャーとどう向き合い、自分自身の人生をどう歩むか、という問いを投げかけます。

偉大な養父・順慶の跡を継ぎながらも、家名を失い、大坂の陣で散った筒井定慶。その辞世の句は、世間の評価に翻弄され、自らの儚さを自覚した人物が、死を前にして見出した静かな諦観と、苦悩に満ちた現世からの解放への密かな願いを伝えています。「消えては何の咎もあらじな」――その言葉は、人生の重荷を下ろす瞬間の、ある種の寂しさと安堵感を、私たちに想像させるのかもしれません。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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