嵐なくとも花は散る ~大内義長、傀儡の君主が見た無常の境地~

戦国武将 辞世の句

戦国の世、名門大内氏最後の当主として、歴史の激流に翻弄された人物がいます。その名は、大内義長(おおうち よしなが)。元は九州の大名・大友氏の子息でしたが、家臣の謀反によって滅亡寸前となった大内氏の当主に、政略によって担ぎ上げられた悲劇の貴公子です。

実権なき傀儡(かいらい)の君主として短い日々を過ごし、最後は毛利元就によって攻め滅ぼされるという、まさに運命に翻弄された生涯でした。しかし、その最期に大内義長が遺したとされる辞世の句は、驚くほどに静かで、深い諦観に満ちています。

誘ふとて なにか恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ

(さそうとて なにかうらみん とききては あらしのほかに はなもこそちれ)

大友から大内へ:傀儡として生きた義長

大内義長は、豊後国(現在の大分県)を治めた戦国大名・大友義鑑(おおとも よしあき)の次男として生まれ、大友晴英(はるひで)と名乗っていました。兄には、後にキリシタン大名として名を馳せ、九州に一大勢力を築くことになる大友宗麟(そうりん)がいます。

晴英の運命が大きく変わるのは、天文20年(1551年)、西国随一の名門であった大内氏の当主・大内義隆が、家臣の陶晴賢(すえ はるかた)によって討たれた事件(大寧寺の変)がきっかけでした。主君を討った陶晴賢は、自らが実権を握るための飾りとして、大内氏の新しい当主を立てる必要がありました。そこで、大内氏と血縁関係(母が大内義興の娘、つまり義隆の姪にあたる)にあり、かつ隣国の大友氏との関係も考慮して、晴英に白羽の矢が立てられたのです。こうして晴英は、大内義長と名を改め、周防国山口に入り、名門大内氏の第32代(そして最後の)当主となりました。

しかし、その地位は名ばかりのものでした。実権はすべて擁立した陶晴賢が握っており、義長はまさに晴賢の意のままに動く傀儡の君主でしかなかったのです。自らの意思とは関係なく、滅びゆく名家の看板を背負わされ、自由のない日々を送る義長の心中は、察するに余りあります。

厳島の敗北、そして大内氏滅亡へ

義長(そして実権を握る陶晴賢)の運命を決定づけたのは、弘治元年(1555年)の厳島の戦いです。安芸国(現在の広島県)で急速に勢力を拡大していた毛利元就と、陶晴賢率いる大内軍が、厳島で激突しました。周到な計略を巡らせた元就の奇襲攻撃により、油断していた陶晴賢は大敗を喫し、もはやこれまでと悟り自害に追い込まれます。

最大の後ろ盾であり、実質的な支配者であった晴賢を失った大内義長の立場は、完全に宙に浮いた状態となり、風前の灯火となりました。毛利元就は、この好機を逃さず、大内氏の本拠地である周防・長門へと侵攻を開始します。義長は山口を追われ、長門国の且山城(現在の山口県下関市)に籠城して最後の抵抗を試みますが、頼みとする家臣にも裏切られ、万策尽きてしまいます。

そして弘治3年(1557年)、毛利軍に城を完全に包囲される中、大内義長は自害を選択。享年26とも言われています。これにより、西国に栄華を誇った名門・大内氏は、完全に滅亡しました。義長は、自らが選んだわけではない役割の、最後の幕引きを否応なく担わされたのです。

辞世の句に込められた心境:静かなる諦観

自らの意思とは無関係に大名の座に据えられ、実権もなく、最後は滅亡の運命を辿った大内義長。その最期に詠まれたとされるのが、「誘ふとて なにか恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」という句です。

「(死へと)誘うからといって、何を恨むことがあろうか。恨むことなど何もない。その時が来れば、激しい嵐(=戦乱や外的な力)が吹かずとも、花が自然に散っていくように、人の命もまた儚く散るものなのだから」。

この句には、自らを翻弄した運命や、擁立した陶晴賢、そして追い詰めた毛利元就に対する恨みや憎しみの感情は、驚くほど見られません。「なにか恨みん」という反語表現は、恨みを抱くことを強く否定しています。むしろ、そこにあるのは、自らの死を、そして大内氏の滅亡という運命を、静かに受け入れようとする深い諦観です。

死を、避けられない自然の摂理(花が散る)として捉えている点に、義長の無常観が表れています。「嵐」(戦乱)が直接の原因でなくとも、いつかは必ず訪れる「時」が来れば命は終わるのだ、という達観した境地。それは、傀儡として生きた無力感の中で培われた、ある種の悟りだったのかもしれません。自分の力ではどうにもならない大きな流れの中で、最後に精神の平静を保とうとした、若き君主の静かな覚悟が伝わってきます。

運命に翻弄されながらも、最期に静かな諦観の境地を示した大内義長の生き様と辞世の句は、現代を生きる私たちにも、いくつかの大切なことを教えてくれます。

  • 運命の受容: 人生には、自分の力ではどうにもならない流れや出来事が起こります。それに抗い続けるだけでなく、あるがままに受け入れるという姿勢もまた、心を穏やかに保つ一つの方法かもしれません。
  • 恨みからの解放: 辛い経験や理不尽な仕打ちに対して、恨みを抱き続けることは、結局自分自身をも深く傷つけ、苦しめることになります。義長のように、恨みを手放し、許す(あるいは諦める)ことで、心の平穏を取り戻せる可能性があります。
  • 無常観と死生観: 全てのものは移り変わり、永遠に続くものはないという無常観。そして、死を自然の摂理の一部として捉える死生観。これらは、日々の出来事に一喜一憂しがちな現代人が、時に立ち止まって思い出すべき、物事の本質を見つめる視点を与えてくれます。
  • 状況に左右されない心のあり方: たとえ傀儡という不本意な立場に置かれ、自由を奪われていたとしても、最期に精神的な境地を示した義長の姿は、外部の状況がいかに厳しくとも、心の持ち方次第で人間としての尊厳を保つことができることを示唆しています。

名ばかりの君主として歴史の波に呑まれ、若くして散った大内義長。しかし、その最期の言葉は、恨みや絶望ではなく、静かな諦観と無常観に彩られています。嵐がなくとも花が散るように、ただ静かに運命を受け入れたその姿は、儚くも美しい、深い余韻を私たちの心に残します。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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