戦国の世を駆け抜けた武将たち。彼らが遺した辞世の句は、死を前にした偽らざる心情の吐露であり、その生き様を映す鏡とも言えます。今回は、徳川家康を支えた四天王の一人、「井伊の赤鬼」と恐れられた猛将、井伊直政の最期の言葉に耳を傾けてみましょう。
祈るぞよ 子の子のすへの 末までも まもれあふみの 国津神々
勇猛果敢な戦ぶりとは対照的な、静かな祈りの句。ここに込められた直政の想いとは、どのようなものだったのでしょうか。彼の激しくも短い生涯を辿りながら、その心を探ります。
逆境を越え、赤備えを率いた将
名門の落日と、運命の出会い
井伊直政は、1561年、遠江国(現在の静岡県西部)の名門、井伊家の嫡男として生を受けました。しかし、その門出は決して平穏なものではありませんでした。祖父は桶狭間の戦いで今川義元と共に討死。そして父・直親は、直政がわずか二歳の時に、主君である今川氏真から謀反の疑いをかけられ、命を奪われてしまいます。井伊家は所領を失い、幼い直政(幼名:虎松)は、追われる身となり、親族にかくまわれながら、息を潜めて生きることを余儀なくされました。
苦難の日々は、直政が十五歳になるまで続きます。しかし、運命の転機が訪れました。鷹狩りをしていた徳川家康の目に留まったのです。家康は、一目でその非凡な才気を見抜き、直政を家臣として召し抱えました。家康自身の幼名「竹千代」にちなんで「万千代」の名を与え、井伊家の旧領である井伊谷を取り戻させたのです。没落した名門の再興は、この瞬間から始まりました。
「井伊の赤鬼」誕生
家康の期待に応え、直政はめきめきと頭角を現します。二十二歳で旗本先手役に任ぜられ、初陣となった武田勝頼との戦いを皮切りに、常に家康軍の先鋒として戦場の第一線に立ち続けました。その勇猛さは、十三歳も年上の本多忠勝や榊原康政といった歴戦の勇士たちと肩を並べるほどでした。
本能寺の変の後、家康が生涯最大の危機と言われる「伊賀越え」を行った際にも、直政は忠実に付き従い、主君を守り抜きました。小牧・長久手の戦いでは、先鋒として果敢に攻め込み、池田恒興らの部隊を打ち破る大功を立て、敵将である豊臣秀吉からも高く評価されたと伝わります。
徳川家中で大きな転機が訪れたのは、家老筆頭の石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔した時でした。徳川家の軍法が豊臣方に漏れることを恐れた家康は、軍制を武田信玄に倣った「甲州流」へと変更します。この時、かつて武田軍最強と謳われた山県昌景隊の「赤備え」を受け継ぐことになったのが、直政でした。朱色の武具で統一された精鋭部隊を率い、先陣を切って敵陣に突撃する直政の姿は、敵兵から「井伊の赤鬼」と呼ばれ、心底恐れられました。自ら先頭に立ち、勇猛果敢に戦うことを信条とした彼の体には、無数の傷跡が刻まれていたと言われています。
武勇だけではない、知略と政治力
直政は、ただ勇ましいだけの武将ではありませんでした。数々の武功が評価され、家康が関東に移ると、上野国箕輪(現在の群馬県高崎市)に十二万石という破格の領地を与えられます。その後、高崎城を築城し、領国経営にも手腕を発揮しました。
天下分け目の関ヶ原の戦いにおいては、その武勇だけでなく、知略も光りました。多くの大名を東軍に引き入れるための調略活動に奔走し、西軍の切り崩しに貢献。合戦当日も、抜け駆け同然で先陣を切るなど、戦場の最前線で獅子奮迅の活躍を見せました。退却する島津義弘の軍勢を執拗に追撃し、島津豊久を討ち取りましたが、その際、敵の銃弾を受け、肩を負傷してしまいます。
戦後、直政は石田三成の旧領である近江佐和山(現在の滋賀県彦根市)に十八万石を与えられ、西国に対する抑えという重要な役割を担います。戦後処理にも力を尽くし、江戸幕府の盤石な基礎を築くために貢献しました。
辞世の句に込められた、未来への祈り
「祈るぞよ 子の子のすへの 末までも」
この句の前半は、自身の血を引く子孫たちが、未来永劫にわたって繁栄し続けることを、切に願う言葉です。「子の子のすゑ」、つまり自分の子供、そのまた子供、さらにその先の代まで、井伊家が続いていくことを祈っています。
「まもれあふみの 国津神々」
後半では、その祈りの対象が明確に示されます。「あふみ」とは、彼が新たに関ヶ原の戦功で得た領地、近江国のことです。「国津神々」は、その土地に鎮座する神々を指します。近江の国の神々よ、どうか我が子孫たちを、この先ずっとお守りください、と。関ヶ原で負った鉄砲傷が悪化し、わずか四十二歳という若さでこの世を去ることになった直政。彼にとって、自らが礎を築いた井伊家の未来、そしてその安寧を託す地となった近江は、特別な思い入れのある場所だったのでしょう。
この句からは、戦場での勇猛さとは裏腹の、深い家族愛と、領主としての強い責任感が伝わってきます。自身の命が尽きようとも、家と領地の未来を案じ、その守護を神々に託す。そこには、若くして散る無念さよりも、次代へ繋ぐことへの強い意志が感じられます。
未来へと繋ぐ想い
井伊直政の辞世の句は、私たちに「未来へ繋ぐ」ことの大切さを教えてくれます。自分の人生は一代限りですが、その働きや想いは、子孫や後進へと受け継がれていきます。家族、地域、会社、あるいは自分が大切にするコミュニティ。その未来を思い、より良い形で次の世代へバトンを渡すために、今、自分に何ができるかを考える。直政の祈りは、そんな普遍的なテーマを私たちに投げかけています。
逆境から立ち上がる強さ
幼くして父を失い、流浪の身となった直政が、いかにして徳川家康の下で信頼を勝ち取り、大出世を遂げたか。その生涯は、逆境に屈せず、自らの力で道を切り拓くことの尊さを物語っています。困難な状況にあっても希望を失わず、努力を続けることで、道は開ける。直政の生き様は、現代を生きる私たちにも勇気を与えてくれます。
忠義と責任感の在り方
家康への揺るぎない忠誠心と、与えられた役職や立場に対する強い責任感。それが「井伊の赤鬼」をして、常に先陣に立たせた原動力でした。現代社会において、「忠義」という言葉は少し古風に聞こえるかもしれません。しかし、自分が属する組織や社会に対して誠実であること、任された役割を全力で果たすことの重要性は、今も昔も変わりません。直政の姿勢は、現代における責任感のあり方を考える上で、一つの指針となるでしょう。
結び
「祈るぞよ 子の子のすへの 末までも まもれあふみの 国津神々」。戦国の世を赤く染めた猛将、井伊直政が最期に遺した言葉は、未来への深い愛と祈りに満ちています。彼の人生とこの句に触れることで、私たちは、自らの生と、未来へ繋ぐべきものについて、改めて考えるきっかけを得られるのではないでしょうか。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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