花の後まで残りしは ~鬼武蔵・新納忠元、老将の春愁と諦観~

戦国武将 辞世の句

「鬼武蔵(おにむさし)」の異名を取り、島津家四代にわたって忠誠を尽くした猛将、新納忠元(にいろ ただもと)。島津氏の九州統一戦では数々の武功を挙げ、その勇名は敵からも恐れられました。しかし、忠元はただの武辺者ではなく、和歌にも通じ、領地経営にも手腕を発揮した文武両道の将でもありました。

戦国の世を駆け抜け、主家の栄光も苦難も見届け、多くの戦友や主君たちの死を見送った後、忠元は85歳という当時としては驚異的な長寿を全うします。そんな老将が、人生の最期に遺したとされる辞世の句は、戦場での勇猛さとは対照的な、静かでしみじみとした感慨に満ちています。春の訪れと花の散り際に、自らの老いと、先に逝った人々への思いを重ねた、深い味わいのある歌です。

さぞな春 つれなき老(おい)と おもうらん ことしも花の あとに残れば

島津家四代に仕えた「鬼武蔵」:新納忠元の生涯

新納忠元は、大永6年(1526年)、島津氏の有力な庶流であり、代々家老職などを務めてきた新納氏に生まれました。若くして島津宗家に出仕し、島津家第15代当主・島津貴久(たかひさ)、そしてその息子である義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)、歳久(としひさ)、家久(いえひさ)のいわゆる「島津四兄弟」が活躍した時代にわたり、家老として、また島津軍の中核を担う勇猛な武将として、文字通り生涯を島津家のために捧げました。

特に、島津氏が薩摩・大隅・日向の三州統一を果たし、さらに九州全土の制覇を目指して戦いを繰り広げた時期には、忠元は常に最前線でその武威を発揮しました。大隅国(鹿児島県東部)や日向国(宮崎県)での肝付氏や伊東氏との激戦、肥後国(熊本県)での相良氏や阿蘇氏との戦い、そして豊後国(大分県)の大友氏との決戦となった耳川の戦い(天正6年、1578年)など、数えきれないほどの合戦に参加し、目覚ましい武功を次々と挙げました。そのあまりの強さと勇猛さから、官途名である武蔵守(むさしのかみ)にちなんで「鬼武蔵」と呼ばれ、敵味方双方から恐れ敬われる存在となりました。

武勇ばかりでなく、新納忠元は大口郷(現在の鹿児島県伊佐市大口)の地頭(領主代理、行政官)を務めるなど、領地の統治や経営においても優れた手腕を発揮し、領民からも深く慕われたと言われています。また、和歌を嗜むなど、文化的な素養も持ち合わせた、バランスの取れた人物でした。

天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定によって島津氏が降伏した後も、忠元は島津家に忠実に仕え続けます。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも、老齢にもかかわらず島津義弘に従って朝鮮半島へ渡海し、奮戦しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、薩摩本国を守る役割を担い、西軍として敗北し敵中突破の末に帰国した島津義弘を迎え入れ、戦後の徳川家康との困難な和平交渉においても、島津家の存続のために重臣として奔走しました。まさに、島津家の栄光の時代から、秀吉・家康という中央政権との厳しい対峙、そして近世大名としての再生に至るまでの全てを知る、生き字引のような存在でした。

多くの戦友たち、そして仕えた主君である島津貴久、義久(1611年没)、家久(1587年没)らの死を見送り、慶長15年(1610年)10月26日、新納忠元は85歳という当時としては稀な長寿を全うし、大口の屋敷で静かに息を引き取りました。

生き残った老将の感慨

戦国の世を生き抜き、多くの出会いと別れを経験し、大往生を遂げた老将・新納忠元。その最期に詠まれたとされるのが、「さぞな春 つれなき老と おもうらん ことしも花の あとに残れば」という句です。

「(今年もまた美しく咲き、そして散っていった)春よ、きっとお前は私のことを、(桜をはじめとする多くの花々が皆、その盛りを終えて散ってしまったというのに、いつまでも枯れずにいる)薄情で、季節の移ろいにも鈍感な老人だと思うだろうなあ。なにしろ、今年もまた、あれほど美しく咲き誇った花々(=若くして散っていった命、先に逝った多くの戦友や主君たち)が去った後まで、この老いぼれの私だけが、こうして生き残ってしまっているのだから」。

この句には、まず、戦乱の世を生き抜き、85歳という長寿を全うした老将ならではの、静かでしみじみとした感慨が深く込められています。「春」という生命の躍動と再生を象徴する季節、そしてその盛りを彩る「花」の美しさと、やがて必ず訪れる散り際の儚さ。それらと対比されるように、自らの「老い」と、多くの人々を見送って「花のあと」まで生き残ってしまったという現実があります。

「つれなき老」という、やや自虐的とも取れる自己評価には、謙遜だけでなく、先に逝った多くの人々、特に若くして散っていった命に対する複雑な思いがうかがえます。共に戦い、苦楽を分かち合った仲間たち、仕え、尊敬した主君たち…彼らが「花」のようにその生涯を終えていった後まで自分が生き永らえていることへの、一抹の後ろめたさや、言いようのない申し訳なさ、そして自分だけが取り残されたかのような深い孤独感。長生きしたからこそ味わう、静かでほろ苦い悲しみが、この言葉には凝縮されています。

しかし、この句には自己否定や人生への絶望といった暗い感情は感じられません。むしろ、擬人化された「春」という自然の大きな営みに穏やかに語りかけ、自らの老いと死を、その避けられない自然なサイクルの一部として受け入れようとする、達観した境地が見て取れます。長年の戦いと人生経験を経て到達した、穏やかで円熟した心境が、この句をしみじみとした深い味わいのあるものにしています。

現代を生きる私たちへの示唆

かつて「鬼武蔵」と恐れられた猛将が、人生の最後に詠んだ静かで味わい深い句。新納忠元の辞世は、人生100年時代とも言われる現代を生きる私たちにも、人生の円熟期や老いとの向き合い方について、多くの示唆を与えてくれます。

  • 長寿と老いの感慨深さ: 長く生きるということは、多くの喜びや経験を得ると共に、多くの出会いと、それ以上に多くの別れをも経験するということ。忠元が感じたように、先に逝った人々への尽きせぬ思いや、自らの老いに対する複雑な感慨は、長寿社会を生きる現代人にとっても、深く共感できる普遍的なテーマかもしれません。
  • 生き残った者の思いとサバイバーズ・ギルト: 戦争や災害、事故、あるいは病気などで、自分だけが生き残ってしまったと感じる人々が抱える、罪悪感にも似た複雑な感情(サバイバーズ・ギルト)。忠元の「つれなき老」という言葉は、そうした感情の存在に光を当て、それを抱える人々の心に静かに寄り添ってくれるかもしれません。
  • 世代交代と時の流れを受け入れるということ: 若い世代(花)が社会の中心となり、活躍し、やがて次の世代へと移り変わっていく。その中で、自らが古い世代となり、第一線から退き、役割を終えていくことを受け入れる。忠元の句は、世代交代という自然で必然的な時の流れに対する、穏やかで成熟した向き合い方を示唆しています。
  • 自然との対話に見出す心の平穏: 忠元が「春」に親しく語りかけたように、季節の移ろいや自然の美しさ、あるいはその厳しさに心を寄せ、自らの人生や感情を重ね合わせることは、心の平穏を得たり、物事をより大きな視点から達観したりする上で、大きな助けとなります。
  • 穏やかな最期を迎えるということの価値: 人生の終わりに、激しい後悔や怒り、あるいは未練といった感情に苛まれるのではなく、自らの生涯を静かに振り返り、感謝や諦観と共に穏やかに終わりを受け入れる。忠元の句は、そうした穏やかで円熟した最期の迎え方の一つのあり方を示しています。

島津家四代に忠誠を尽くし、「鬼武蔵」と恐れられながらも、戦国の世を生き抜き、85年の長寿を全うした老将・新納忠元。その辞世の句は、戦場での勇猛さとは異なる、人生の黄昏時に漂う、静かで深い感慨と、先に逝った人々への尽きせぬ思い、そして老いと死を自然の摂理として穏やかに受け入れる達観した心境を、私たちにしみじみと伝えています。「ことしも花のあとに残れば」――その言葉は、長く生きたからこそ見える景色、そしてそこに漂うほろ苦くも温かい寂寥感を、現代を生きる私たちの心にも静かに響かせるようです。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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