慶長5年(1600年)、天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦い。この戦いでは、数多くの武将たちがそれぞれの信念や義理のために死力を尽くし、その命を戦場に散らしました。平塚為広(ひらつか ためひろ)もまた、石田三成率いる西軍の一員として奮戦し、関ヶ原の露と消えた武将の一人です。為広は、特に、病を押して西軍の義のために立ち上がった親友、大谷吉継(おおたに よしつぐ)との厚い友情で知られ、その最期まで吉継と共に戦い抜いた姿は、多くの人々の心を打ちます。
敗北を悟り、自らの死を覚悟した平塚為広が遺したとされる辞世の句は、武士としての名誉を何よりも重んじ、この儚(はかな)い世の中においては、その守るべき「名」のために命を捨てることも決して惜しくはないという、潔く、そして力強い武士の魂の叫びでした。
名(な)のために すつる命は 惜しからじ つひにとまらぬ うき世と思へば
秀吉に仕え、大谷吉継と共に関ヶ原へ:平塚為広
平塚為広の出自は美濃国(現在の岐阜県)とされ、その詳しい経歴は不明な点もありますが、早くから豊臣秀吉に仕え、主君の側近警護などを務める馬廻(うまわり)衆の一員であったと考えられています。秀吉が天下統一を進める過程で行われた主要な戦役、例えば九州平定(天正15年、1587年)や小田原征伐(天正18年、1590年)、そして海を渡った文禄・慶長の役(朝鮮出兵、1592年~1598年)などにも従軍し、武将としての経験を重ね、功績を挙げました。その功により、秀吉政権下では美濃国垂井(たるい、現在の岐阜県不破郡垂井町)において1万2千石の領地を与えられ、大名に列していました。
為広は、同じく秀吉の家臣であった大谷吉継と、非常に深い友情で結ばれていたと伝えられています。吉継は、知勇兼備の名将でありながら、重い病(ハンセン病であったと言われる)を患い、人前に出る際には顔を白い布で覆っていたことで知られますが、その優れた能力と、豊臣家への忠誠心、そして誠実な人柄は多くの人々から尊敬を集めていました。為広もまた、吉継の人格と器量に深く心服していたのでしょう。
慶長5年(1600年)、太閤・豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣政権内部での対立が表面化し、徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との間で、天下の覇権を賭けた関ヶ原の戦いが勃発します。平塚為広は、豊臣家への恩義、そして盟友・大谷吉継との絆から、迷うことなく西軍への参加を決意します。そして、病を押して「義」のために西軍に加わった親友・大谷吉継の指揮下に入り、運命の地、関ヶ原へと赴きました。
関ヶ原での奮戦と、友への義
関ヶ原の戦い当日、大谷吉継の部隊は、戦場の要衝であり、西軍の布陣の側面にあたる松尾山の麓に陣取りました。平塚為広も、吉継の右腕として、その部隊の先頭に立ち、東軍の藤堂高虎・京極高知らの部隊と激しい戦闘を繰り広げました。奮戦により、一時は東軍を押し返すほどの活躍を見せたと言われています。
しかし、戦闘が最も激しくなった正午過ぎ、松尾山に陣取っていた小早川秀秋(秀吉の養子の一人)が、大方の予想通り、西軍を裏切って山から駆け下り、側面から大谷隊に襲いかかります。さらに、これに呼応するように、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった他の西軍諸将も次々と裏切り、東軍に寝返りました。これにより、奮戦していた大谷隊は完全に側面と背後から攻撃を受け、包囲され、瞬く間に壊滅的な状況に陥ってしまいます。
この絶望的な状況の中で、大谷吉継はもはやこれまでと自害を決意します。病のため自ら首を掻き切ることができなかった吉継は、側近中の側近であった湯浅五助に介錯を命じました。そして、自らの病んだ顔を敵に晒すことを恥じ、「首を敵に渡すな」と遺言したと伝えられます。一説には、平塚為広もその場に駆けつけ、吉継の最期を見届けた、あるいは五助から吉継の首を託され、敵の目に触れぬよう近くに埋めたとも言われています。
親友である吉継の壮絶な最期を目の当たりにし、あるいはその遺志を託された平塚為広は、もはや自らの生還を考えることなく、武士としての最後の意地と、吉継への義を貫く覚悟を決めたのでしょう。為広は、残ったわずかな兵を率いて、裏切って大谷隊を攻撃してきた小川祐忠の隊に、死を覚悟した最後の突撃を敢行します。獅子奮迅の戦いぶりを見せますが、衆寡敵せず、ついに力尽き、関ヶ原の地にその命を散らしました。主君(豊臣家)への忠義、そして親友・大谷吉継への義理を、命を賭して貫き通した、壮絶な最期でした。
辞世の句に込められた名誉と無常観
敗北を悟り、親友の死を見届け、そして自らも最後の突撃を前にした平塚為広が詠んだとされるのが、「名のために すつる命は 惜しからじ つひにとまらぬ うき世と思へば」という句です。
「(武士としての)名誉のために、あるいは主君や友への信義・義理のために捨てるこの命は、私にとって少しも惜しいものではない。なぜならば、この世(うき世)というものは、結局のところ、誰も永遠に留まることのできない、儚(はかな)く、そして苦しみも多い無常の世界だと思うからだ」。
この句からは、まず「名」というものを何よりも重んじる、為広の強い武士道精神が明確に伝わってきます。ここでいう「名」とは、単なる個人的な名声や世間的な評判というよりも、武士として守るべき誇り、主君(豊臣家)への忠義、そして友(大谷吉継)への信義といった、自らが最も大切にする価値観そのものを指しているのでしょう。その守るべき「名」のためならば、自らの命(玉の緒)を失うことも、決して惜しいことではない、という潔く、迷いのない覚悟が示されています。
そして、その揺るぎない覚悟を精神的に支えているのが、「つひにとまらぬ うき世と思へば」という、この世に対する深い無常観です。「うき世(憂き世)」とは、仏教的な思想を背景として、この世が苦しみに満ち、全てのものが常に移り変わっていく儚いものであることを示します。平塚為広は、どうせ誰もが永遠には生きられず、いずれは去りゆくこの儚い世の中なのだから、その中で命に執着することはない、と考えているのです。この無常観、あるいは諦観とも言える境地が、死への恐怖を乗り越え、自らが信じる「名」のために命を捨てるという、究極の自己犠牲の決断を、揺るぎないものにしていると言えるでしょう。
親友・大谷吉継の義に殉じ、最後まで武士としての誇りを貫き通した平塚為広。その最期の心境は、現世の儚さを受け入れた上で、だからこそ、永遠に価値を持つと信じる「名」のために生き、そして潔く死ぬことを選んだ、清々しくも力強いものであったことが、この辞世の句から鮮やかにうかがえます。
人間として、あるいは組織や社会の一員として大切にしたい価値観
平塚為広の生き様と、名誉と無常観を詠んだ辞世の句は、効率性や合理性が重視されがちな現代社会を生きる私たちにも、人間として、あるいは組織や社会の一員として大切にしたい価値観や、人生との向き合い方について、多くの示唆を与えてくれます。
- 名誉や誇りを大切にする生き方: 現代社会では、時に忘れられがちな「名誉」や「誇り」。しかし、損得勘定だけではなく、人間としての尊厳、あるいは自分が信じる価値観(自分にとっての「名」)を守るために行動することは、人生に深い意味と充実感を与えてくれます。
- 友情の価値と信義を貫くこと: 親友である大谷吉継と共に戦い、その最期まで義理を貫いた為広の行動は、友情という人間関係の持つ力の大きさ、そして人と人との間で交わされる約束や信義を重んじることの、時代を超えた普遍的な尊さを示しています。
- 無常観と「今を生きる」こと: 人生やこの世は儚く、永遠ではない(うき世)という認識を持つこと。それは、決して悲観的な考えではなく、むしろ限りある「今」という時間、そして目の前にある人との繋がりや出来事を、より深く、より大切に生きようとする原動力になり得るという視点を与えてくれます。
- 潔く受け入れる強さ: 自分の運命や、自らが下した決断の結果(為広にとっては死)を、言い訳や後悔をすることなく、潔く受け入れるという態度。為広の辞世の句には、そうした状況を受け入れる精神的な強さと、潔さが表れています。
- 何のために生き、何を大切にするか: 為広は「名のため」に命を捨てました。これは、私たち一人ひとりに対して、「自分は何を最も大切な価値と考え、何のためならば、あるいは誰のためならば、自分の時間や労力、時には多くを捧げることができるのか」という、人生の根源的な問いを投げかけてきます。
関ヶ原の露と消えた義将、平塚為広。親友・大谷吉継と共に、西軍が掲げた「義」のために最後まで戦い抜き、その最期まで武士としての名誉と誇りを貫きました。「名のためにすつる命は惜しからじ」――その潔い辞世の句は、儚い世であればこそ、人が守るべき価値とは何か、そして誇り高く生き、死ぬことの意味を、私たちに力強く語りかけてくるようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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