かつて九州北部に栄華を誇った名門・少弐氏。鎌倉時代には元寇(蒙古襲来)の撃退に多大な功績を上げましたが、室町時代以降、その勢力は次第に衰え、隣国の雄・大内氏との熾烈な覇権争いに明け暮れることになります。少弐政資(しょうに まさすけ)は、この衰亡期の少弐氏を率い、宿敵・大内氏と生涯をかけて戦い続けた、悲劇の武将です。
長年にわたる奮闘もむなしく、最後は大内軍に追い詰められ、自害に追い込まれた政資。しかし、その最期に遺されたとされる二首の辞世の句は、敗北への恨みや無念を語るのではなく、まるで自然の摂理を受け入れるかのように、自らの、そして一族の「時」が来たことを静かに悟る、深い諦観に満ちています。
花ぞ散る 思へば風の 科(とが)ならず 時至りぬる 春の夕暮
善(よ)しやただ みだせる人の とがにあらじ 時至れると 思ひけるかな
名門再興を賭けた戦い:少弐政資の生涯
少弐政資は、鎌倉幕府の御家人として九州北部に勢力を張り、元寇の際には日本軍の主力として活躍した名門・少弐氏の第16代当主として、文明3年(1471年)頃に家督を継ぎました。しかし、政資が家督を継いだ時代、少弐氏は筑前国(福岡県西部)や肥前国(佐賀県・長崎県の一部)にわずかな領地を残すのみで、かつての威光は失われつつありました。その大きな原因が、周防国(山口県)を本拠とし、西国一の勢力を誇る大内氏の圧迫でした。
少弐政資の生涯は、この宿敵・大内氏との存亡をかけた戦いの連続でした。応仁の乱に乗じて勢力回復を図り、大内氏の当主・大内政弘と激しく争います。時には勝利を収め、筑前国の一部を奪還するなど、不屈の闘志を見せつけますが、大内氏の圧倒的な国力の前に、長期的に見れば劣勢は否めませんでした。政資は、大内氏に対抗するために、大友氏や龍造寺氏といった他の九州の勢力と連携を図るなど、外交努力も重ねます。
大内政弘が亡くなり、その子・義興が家督を継ぐと、大内氏の攻勢はさらに激化します。義興は、少弐氏を完全に滅ぼすべく、繰り返し肥前へ侵攻。政資は粘り強く抵抗を続けますが、次第に追い詰められていきます。
そして明応6年(1497年)、大内義興は再び大軍を率いて肥前へ侵攻。政資は居城(筑前国の高祖城、あるいは肥前国多久の梶峰城など諸説あり)に籠城し、最後の抵抗を試みます。しかし、援軍の当てもなく、城内の兵糧も尽き果て、もはやこれまでと覚悟を決めます。城に火を放ち、一族郎党と共に自害して果てました。享年57。政資の死により、鎌倉時代以来、九州北部に君臨した名門・少弐氏の本流は、事実上滅亡の時を迎えたのです。
二首の辞世に込められた心境:運命の受容と諦観
生涯をかけて宿敵・大内氏と戦い続け、最後は一族と共に滅びの道を辿った少弐政資。その胸中には、いかばかりの無念や悲憤があったことでしょう。しかし、遺されたとされる二首の辞世の句は、そうした激しい感情を抑制し、むしろ静かで深い諦観の境地を映し出しています。
「花ぞ散る 思へば風の 科ならず 時至りぬる 春の夕暮」
「桜の花がはかなく散っていく。よく考えてみれば、それはただ激しい風(=敵である大内氏の攻撃)のせいだけではないのだ。(花自身の)寿命、すなわち自然に散るべき時が来たのだ、この美しいけれどももの寂しい春の夕暮れに」。
ここでは、自らの死、そして少弐一族の滅びという運命を、自然界の現象である「花の散り際」に重ね合わせています。滅びの原因を、敵である大内氏という外的要因(風)だけに求めるのではなく、「時至りぬる」という、抗うことのできない運命の流れ、あるいは内部的な要因(少弐氏の勢力の限界、寿命)として静かに受け止めようとしています。「春の夕暮」という、美しさと儚さが同居する情景が、その諦観の深さと、滅びゆくものへの哀感を一層際立たせています。
「善しやただ みだせる人の とがにあらじ 時至れると 思ひけるかな」
「もう良いのだ、全ては仕方がないことだ。この状況をかき乱した者(=敵である大内氏、あるいは一族内の裏切り者など)のせいだけではあるまい。ただただ、自分自身の、そして我ら少弐一族の滅びの時が来たのだなあ、と思うばかりであるよ」。
この句は、一首目の心境を、より直接的かつ明確に言い表しています。「善しやただ(もうよい、諦めよう)」という言葉に、すべてを受け入れる覚悟が決まった様子がうかがえます。そして、「みだせる人のとがにあらじ」と、敵や他者を恨むことを明確に否定し、責任を他に転嫁することを潔しとしません。ただひたすらに、「時至れる」、つまり運命としてこれを受け入れるしかないのだ、という静かで揺るぎない覚悟を示しているのです。
二首の句に共通して流れるのは、「時」の到来という認識です。少弐政資は、長年にわたる苦しい戦いの末に訪れた自らの死と一族の滅亡を、単なる敗北や悲劇として嘆くのではなく、自然の摂理や歴史の大きな流れにおける、避けられない「時」の到来として捉えようとしたのです。そこには、長年の戦いに疲れ果てた末の深い諦念と共に、最後まで名門の当主としての誇りを失わず、潔く最期を迎えようとする強い精神力が感じられます。
少弐政資の生涯と、滅びを静かに受け入れた二首の辞世の句は、変化が激しく、思い通りにならないことも多い現代を生きる私たちにも、人生との向き合い方について多くの示唆を与えてくれます。
- 運命や変化の受容の力: 人生には、自分の努力だけではどうにもならない大きな時代の流れや、予期せぬ困難、避けられない変化が訪れます。それにただ抗い続けるだけでなく、時には「時が来た」と現状を受け入れ、その中で自分にできることを見つめるという姿勢も、心を穏やかに保つためには必要かもしれません。
- 責任転嫁しない潔さ: 失敗や困難な状況に直面した時、その原因を他者や環境のせいにしてしまうのは人間の弱さの一つです。しかし、政資のように「みだせる人のとがにあらじ」と、他者を責めることなく、自らの状況や内的な要因にも目を向ける姿勢は、人間的な成熟と潔さを示し、前向きな反省と学びにつながります。
- 「潮時」を見極める知恵: 物事には始まりがあれば必ず終わりがあります。ビジネスにおいても、人間関係においても、あるいは自分自身の挑戦においても、引き際や諦め時を見極めることは、時に非常に重要です。政資の諦観は、執着を手放し、潔く次の段階(政資の場合は死)へ移行するための、一つの知恵とも言えます。
- 負の感情からの解放と心の平穏: 恨み、憎しみ、後悔といった負の感情は、長く抱え続けると自分自身をも蝕んでしまいます。政資のように、そうした感情を超越し、心の平穏を保とうと努めることは、より良く、穏やかに生きるための大切な心がけです。
- 儚さの中に見出す美意識: 「春の夕暮」に散る桜の花。政資の句は、人生の終焉や物事の終わりを、単なる喪失や悲劇としてではなく、儚くも美しい自然の情景として捉える感性を教えてくれます。終わりがあるからこそ、その瞬間や過程がより一層輝きを放つのかもしれません。
宿敵・大内氏との永きにわたる戦いに明け暮れ、最後は一族と共に滅びの道を辿った少弐政資。その辞世の句は、敗北の将の悲痛な叫びではなく、運命を静かに受け入れ、「時」の到来を深く悟った者の、揺るぎない諦観と武士としての潔さを湛えています。「花散るは風の科ならず」――その言葉は、私たちに、人生の無常と、その中で見出すべき心の静けさについて、深く、そして切なく語りかけてくるようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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