梓弓は元の栖へ ~吉川経家、鳥取城に散った忠臣の潔き魂~

戦国武将 辞世の句

戦国時代、数多の合戦がありましたが、中でも羽柴(豊臣)秀吉による「鳥取城の渇(かつ)え殺し」は、その凄惨さで知られています。食料を断たれ、餓死者が続出する地獄のような状況の中で、城兵たちの命を救うために、自らの腹を切って責任を取った城主がいました。その名は、吉川経家(きっかわ つねいえ)。毛利家に忠誠を誓った、義理堅く、責任感の強い武将でした。

わずか35歳で生涯を閉じた経家ですが、その潔い最期は敵将・秀吉をも感嘆させたと伝えられます。死を前にして、吉川経家が遺した辞世の句は、武士としての誇りと、静かに運命を受け入れる清らかな心境を映し出しています。

武夫(もののふ)の 取り伝へたる 梓弓(あずさゆみ) かへるや もとの 栖(すみか)なるらん

毛利家に忠誠を誓った武将:吉川経家とは

吉川経家は、石見国(現在の島根県西部)の国人領主であった石見吉川氏の当主でした。石見吉川氏は、毛利元就の次男・元春が家督を継いだ安芸国(広島県西部)の吉川本家とは分家の関係にあたり、毛利氏の支配下にあってその指示に従う一武将という立場でした。

経家の運命が大きく動いたのは、天正8年(1580年)のことです。当時、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による中国地方侵攻が激化しており、因幡国(現在の鳥取県東部)の鳥取城は、毛利方と織田方の間で争奪が繰り返される最前線となっていました。毛利方は一度、織田方に寝返った城主・山名豊国を追放して城を奪還したものの、新たな城主のなり手がいないという困難な状況にありました。そこで、毛利家、特に吉川本家の当主であり、経家にとっては本家の主にあたる吉川元春から、経家に鳥取城主就任の命令が下されたのです。

一族や家臣からは、危険な最前線の城に入ることに反対の声も上がりましたが、吉川経家は「家名を汚さぬよう、毛利家への忠功のため」と、この困難な役目を引き受けます。毛利家への揺るぎない忠誠心と、武士としての強い責任感が、経家を突き動かしたのでしょう。経家はわずかな手勢を率いて、死地とも言える鳥取城へ入城しました。

鳥取の渇え殺しと潔い最期

吉川経家が入城した翌年の天正9年(1581年)、羽柴秀吉は2万ともいわれる大軍で鳥取城を包囲します。秀吉は、過去の経験から力攻めでは城が落ちにくいと判断し、戦国史上最も苛烈とも言われる兵糧攻め、いわゆる「鳥取の渇え殺し」の策を実行しました。事前に鳥取周辺の米を高値で買い占め、若狭(福井県)などからの海上輸送路も遮断し、城内への食料供給を完全に断ったのです。

城内の備蓄は瞬く間に底をつき、人々は飢えに苦しみ始めます。牛馬や草木の根まで食べ尽くし、餓死者が続出。城内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、ついには亡くなった人の肉を食べる者まで現れるという、想像を絶する悲惨な状況に陥りました。吉川経家は、この極限状況の中で必死に城兵を励まし、統率を保とうと努めましたが、飢餓の前にはもはや城の維持は不可能でした。

城兵たちの惨状に心を痛めた吉川経家は、これ以上の犠牲を出すことはできないと判断し、ついに開城を決意します。しかし、降伏にあたり、経家は自らの命と引き換えに、城内にいる全ての兵士や領民の命を助けることを秀吉に嘆願しました。秀吉は、敵将ながら責任を一身に負おうとする経家の潔さと、その忠義心、武士としての器量の大きさに深く感銘を受け、この条件を快く受け入れたと言われています。

そして、同年10月25日、吉川経家は、城内の将兵が見守る中、落ち着いた様子で毛利家への忠誠と城兵への感謝の言葉を述べた後、従容として自刃しました。享年35。その見事な最期は、敵味方の区別なく多くの人々に感銘を与え、「武士の鑑」として後世まで語り継がれることになります。

辞世の句に込められた心境:武士の魂の行方

凄惨な籠城戦の末、自らの命と引き換えに多くの命を救った吉川経家。その最期に詠まれたとされるのが、「武夫の 取り伝へたる 梓弓 かへるや もとの 栖なるらん」という句です。

「武士が代々大切に受け継いできたこの梓弓(=武士としての生き様、魂、あるいは私の命そのもの)。(私が死ねば)この弓もまた、本来あるべき場所(=魂の故郷、あの世、あるいは先祖代々の場所)へと自然に帰っていくのだろうか」。

この句には、死を目前にした武将の、静かで澄み切った心境が、気高く映し出されています。「梓弓」は、武士の象徴であり、経家が生涯をかけて守ろうとした武門の誇りや、受け継いできた家系の伝統を意味しているのでしょう。経家は、自らの死を、その大切な「梓弓」が「もとの栖」へと還っていく、自然な摂理の一部として捉えているようです。

そこには、敗北への激しい無念や、秀吉への恨みといった感情は微塵も感じられません。むしろ、城主としての責任を全うし、武士としての本分を尽くした今、魂が本来還るべき安らかな場所へ向かうのだという、ある種の安堵感や、清々しささえ漂っています。武士として生まれ、武士として死んでいく。その運命を静かに受け入れ、自らの魂の行方に穏やかに思いを馳せる、潔くも美しい最期の心境がうかがえます。

吉川経家の短いながらも気高い生涯と辞世の句は、現代を生きる私たちに、人間として大切にしたい多くのことを教えてくれます。

  • 責任感と使命感: 困難な状況や不利な立場であっても、自らに与えられた責任から逃げずに最後まで全うしようとする姿勢。経家の行動は、リーダーとして、また組織の一員として、あるいは一人の人間としての責任感の重要性を強く示しています。
  • 自己犠牲の精神: 自分の利益や保身、さらには命よりも、他者(城兵たち)の幸福や安全を優先する。その自己犠牲の精神は、人の心を打ち、共感を呼び、時代を超えて尊ばれる普遍的な価値観です。
  • 潔さと誇り: どんなに苦しい状況に追い込まれても、卑屈にならず、潔さを失わず、自らの信念や人間としての誇りを貫くこと。経家の最期は、逆境における人間の尊厳とは何かを深く考えさせます。
  • 受け継がれるものへの敬意: 「梓弓」に象徴されるような、家系、伝統、文化、あるいは先人たちが築き上げてきた知識や技術など、目に見えないものも含めて、受け継いできたものへの敬意を持つこと。自分のルーツや、所属するコミュニティの価値観を大切にする心。
  • 真のリーダーシップ: 極限状況において、私欲を捨て、部下の命を救うために最も困難な決断を下す。経家の姿は、損得を超えた、真のリーダーシップとは何かを示しています。

鳥取城の悲劇の中で、自らの命を捧げて多くの人々を救った吉川経家。その生涯は短くとも、忠義と責任感に貫かれた生き様、そして辞世の句に込められた静かで潔い魂は、戦国の世に確かな光跡を残し、今も私たちの心を深く打ちます。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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