上泉信綱の名言です。

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剣豪の紹介
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人は天地の塵ぞ。塵なればこそのいのちを思いきわめ、塵なればこその重さを知れ。 塵となりつくして天地に呼吸せよ。池波正太郎「剣の天地」より

上泉信綱は上野国に、大胡城主・秀継の次男として生を受けたとされています。幼名を秀長と言い、その後秀綱と改めました。そして、長男が夭折したため、信綱が家督を継ぐこととなりました。
箕輪城主である長野家の家老であり、新陰流を創った人物で、剣豪としてはとても有名で『剣聖』とも言われています。武蔵野の武士としてのしきたりとして『念流』を教わり、その後常陸の鹿島に行き、十代にして天真正伝香取神道流を収めました。愛洲久忠が創始した『陰流』を収め、二十歳を過ぎて、久忠の子である宗通より『陰流』の秘術を与えられたと言われています。
信綱の『陰流』においての師匠というのは、愛洲久忠であるか、久忠の子・宗通なのかという二つの説があります。その年には、伊勢守を名乗り上泉にとっての主な城である大胡城の主になりました。上泉家は関東管領であった上杉家に仕えています。しかし、上杉家も上杉憲政の代には勢いもなくなっていたため、上杉家に隣接している武田家や北条家の勢いが増してきました。
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上杉憲政が北条氏康に攻められたのが1551年でした。上野平井城を翌年には出ていくことになり、越後にいた、後の上杉謙信に関東管領の職と上杉という姓を譲渡し、守ってもらったのでした。
上杉謙信は、攻められた領地を取り返すために関東へと兵を出しました。上杉氏と北条氏の戦に、さらに武田家も加わったので、混乱を極めます。信綱の上野国の辺りも戦争の渦の中に入っていきました。
憲政がいなくなってからも、上杉家の家来たちは、上杉家再興のために北条・武田の軍と戦い続けました。その真ん中に立ったのが、上野の箕輪城城主・長野業正だったのです。
その戦では、信綱も長野家や上杉家の軍勢として北条や武田と戦って戦功をあげました。このことで、『長野家一六本の槍』や『上野国一本槍』といった感状を受けています。
業正が亡くなって息子が継いだ後は、信綱も懸命に戦うも、ついに箕輪城は落ちました。城を去ったのち、信綱は武田信玄と会います。その際に、信玄は信綱を良い条件で雇い入れるという話しをしたのですが、「修行の旅をしながら新陰流を広めたい」という事をいって、信綱は断ります。さらに、この時には信玄の“信”の字をいただいて、『信綱』という名に改めたのでした。
旅先の伊勢では、北畠具教と知り合い、宝蔵院胤栄や柳生宗厳に引き合わせてくれたのでした。彼らと立ち会うと、信綱には及びませんでした。信綱の没年に関しても定かではありませんが、1577年に柳生の地で亡くなったとされています。
上泉信綱の弟子たち
疋田景兼、神後宗治、奥山公重、丸目長恵、柳生宗厳、松田清栄、野中成常、駒川国吉など、多くの弟子たちから様々な流派が生まれ、400年経った今でも受け継がれています。

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