【最強の矛と盾】本多忠勝と井伊直政。「立葵」と「橘」の家紋は徳川家康の天下をどう支えたか

戦国武将 名言集

はじめに―家康の天下を支えた「矛」と「盾」

二百六十年に及ぶ江戸の泰平を築いた徳川家康。その天下取りの道のりは、決して彼一人の力で成し遂げられたものではありませんでした。彼のもとには、後世に「徳川四天王」と称される四人の傑出した家臣がいました。その中でも、武勇において双璧とされたのが、「最強の盾」本多忠勝と、「最強の矛」井伊直政です。一人は、生涯無傷を誇り、いかなる時も家康のそばでその身を守り続けた忠義の塊。

もう一人は、滅亡した家の再興を胸に、常に敵陣の先駆けを務めた野心と実力の塊。出自も性格もあまりに対照的な二人ですが、彼らはそれぞれのやり方で家康に尽くし、その天下を盤石なものとしました。そして、彼らが掲げた家紋―忠勝の「立葵」と直政の「橘」―は、奇しくも二人の異なる忠義の形と、徳川家における役割を象徴していました。最強の矛と盾は、いかにして家康の天下を支えたのか。その物語を紐解きます。

「蜻蛉切」を手に、生涯無傷の猛将・本多忠勝

古参の譜代、徳川家に捧げた忠義一筋の生涯

本多忠勝は、1548年、松平家(後の徳川家)に古くから仕える最古参の譜代の家に生まれました。祖父・忠豊は主君・松平広忠(家康の父)を守って討ち死にし、父・忠高もまた戦場で命を落としています。まさに、代々徳川家のために命を捧げてきた、忠義の血筋そのものでした。忠勝自身も、わずか13歳で初陣を飾って以来、その生涯のほとんどを戦場で過ごし、常に主君・家康の側近くで戦い続けました。彼にとって、徳川家に尽くすことは、呼吸をするのと同じくらい自然で、疑う余地のない絶対的な使命でした。

「家康に過ぎたるもの」と謳われた「最強の盾」

忠勝の武勇は、数々の伝説によって彩られています。その象徴が、愛用した三つの武具です。一つは、天下三名槍の一つに数えられる名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」。その名の由来は、槍の穂先に止まった蜻蛉が、刃先に触れただけで真っ二つに切れたという逸話から来ています。二つ目は、漆黒の愛馬「三国黒(みくにぐろ)」。そして三つ目が、戦場での彼のトレードマークとなった、鹿の角をあしらった勇壮な兜です。これらの武具を身につけた忠勝は、敵味方から畏怖の対象でした。そして彼の武勇を最も象徴するのが、「生涯において大小57度の合戦に参加し、ただの一度も傷を負わなかった」という驚くべき記録です。これは単なる幸運ではありません。

卓越した武芸と、戦場の空気を読む危機察知能力、そして何よりも「自分が死なないこと」が、主君・家康を守り抜くことに直結するという、「盾」としての強烈な使命感の現れでした。1572年の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の猛追を受ける絶体絶命の状況下で、殿(しんがり)を務めて家康の逃走を助け、その鬼神の如き戦いぶりに、敵将である信玄さえもが感嘆したと伝えられています。その忠勇は、織田信長をして「家康に過ぎたるもの」と言わしめるほどでした。

武骨なまでに実直な忠臣

忠勝の功績は、派手な一番槍といったものよりも、敗走する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ「殿」や、大将のそばを固める「旗本」など、最も危険で損な役回りにこそ集中しています。1584年の小牧・長久手の戦いでは、わずか500の手勢で、豊臣秀吉の数万の大軍の前に立ちはだかり、堂々とした振る舞いで敵の進軍を食い止め、家康本隊の撤退を見事に成功させました。彼は、自らが目立つことよりも、組織全体、そして何よりも主君・家康を守ることを第一義とした、武骨なまでに実直な「最強の盾」だったのです。

「井伊の赤鬼」―恐れられた徳川の斬り込み隊長・井伊直政

滅亡した家からの再起を誓ったハングリー精神

本多忠勝とは対照的に、井伊直政の人生は逆境からのスタートでした。1561年、遠江国(現在の静岡県西部)の名門・井伊家に生まれた直政ですが、井伊家は当時主家であった今川氏真から謀反の疑いをかけられ、父・直親は殺害、家は取り潰しの憂き目に遭います。幼い直政は、命からがら逃亡し、苦難に満ちた潜伏生活を余儀なくされました。そんな彼を見出し、徳川家臣として取り立てたのが家康でした。忠勝のような譜代の家柄という後ろ盾を持たない直政にとって、徳川家で成り上がるためには、誰よりも目覚ましい手柄を立てるしかありませんでした。滅亡した井伊家を再興するという強烈なハングリー精神が、彼の全ての行動の原動力となっていきます。

武田の魂を受け継ぐ「井伊の赤備え」

直政のキャリアにおいて最大の転機となったのが、1582年の武田家滅亡でした。家康は、かつて徳川家を最も苦しめた武田の最強軍団「赤備え」の旧臣たちを召し抱えると、その精鋭部隊を、若き直政に託したのです。これは、新参者である直政に対する家康の絶大な期待の表れでした。全身の武具を赤一色で統一した「井伊の赤備え」は、戦場で非常に目立ち、敵に強烈な威圧感を与えました。直政はこの赤備え軍団を率いて、常に徳川軍の先鋒を務め、敵陣に一番乗りで斬り込んでいくその勇猛さから、やがて「井伊の赤鬼」として天下にその名を轟かせます。彼の部隊は、徳川軍の勝利を切り開く、まさに「最強の矛」でした。

「人斬り兵部」の厳しさと、その裏にある政治的手腕

しかし、その華々しい活躍の裏で、直政は「人斬り兵部」という、もう一つの異名で恐れられていました。彼は、寄せ集めである武田の旧臣たちをまとめ上げ、最強軍団を作り上げるために、部下に対して極めて厳しい軍律を課しました。些細なミスでも容赦なく手討ちにするその厳しさは、味方からも恐れられるほどでしたが、それこそが、外様である彼が家中で生き残り、功績を上げるための唯一の方法だったのです。

一方で、彼は武勇一辺倒の人物ではありませんでした。関ヶ原の戦い後には、敵であった島津家との困難な和平交渉を見事にまとめ上げるなど、優れた外交・政治的手腕も発揮しています。ただ敵を斬るだけでなく、戦の後の始末までこなせる多才な能力こそが、彼を単なる猛将以上の存在たらしめていました。

主君と寄り添う「立葵」、独立不羈の「橘」―二つの家紋の物語

「本多立葵」―徳川本家への絶対的な忠誠の証

本多忠勝が用いた家紋は「立葵(たちあおい)」です。徳川家といえば、宗家が用いる「三つ葉葵」が有名ですが、この葵紋は、元来は松平家とゆかりの深い神社の神紋でした。本多家の「立葵」もまた、徳川(松平)家が三河国の一豪族に過ぎなかった時代から、その強固な主従関係を示す紋章として用いられてきた、由緒正しいものです。本多家の「立葵」と徳川宗家の「三つ葉葵」は、意匠こそ異なりますが、同じ「葵」を共有しています。それは、本多家が徳川家という大きな幹から分かれた枝であり、一蓮托生の間柄であることを象徴していました。忠勝の生き様は、まさにこの「立葵」の紋そのものでした。彼は、自らが新たな花を咲かせることよりも、常に徳川宗家という幹に寄り添い、それを支え、守ることに徹しました。彼の忠義は、主君と自らを一体化させる、絶対的なものだったのです。

「井伊橘」―外様としての誇りと井伊家再興の執念

一方、井伊直政が掲げた家紋は「橘(たちばな)」、正確には「彦根橘」と呼ばれるものです。橘は、古事記にも登場する神聖な果樹であり、その紋は藤原氏の流れを汲むなど、由緒正しい名門の家が用いる格式高いものでした。徳川家の葵とは全く起源の異なるこの紋を、直政が生涯掲げ続けたことには、深い意味があります。それは、彼が徳川家の家臣であると同時に、滅びた「井伊家」の当主であり、その家名を自らの手で再興するという強烈なプライドと執念の現れでした。直政は、徳川家という大きな組織に埋没するのではなく、「井伊直政」という一個の武将として、そして「井伊家」という独立したブランドを背負って戦いました。だからこそ、誰よりも目覚ましい手柄を立て、自らの価値を証明する必要があったのです。「橘」の紋は、彼の外様としての矜持と、決して折れることのない独立不羈の精神を象徴していたのです。

二つの紋が支えた徳川の天下

家康は、この二人の家臣を巧みに使い分けました。本多忠勝のような、自らと一体となって忠義を尽くす「立葵」の譜代家臣団を、組織の土台となる「盾」として。そして、井伊直政のような、独立した誇りを持ち、功名を競って働く「橘」の外様家臣団を、組織を拡大させるための「矛」として。出自も性格も、そして忠義の形も異なる、この多様な人材がそれぞれの持ち場で輝いたことこそ、徳川家臣団の最大の強みでした。「立葵」と「橘」は、徳川の天下を支えた人材の多様性そのものを象徴していたと言えるでしょう。

関ヶ原、そして天下統一へ―二人の最後の奉公

1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いで、二人はその集大成ともいえる働きを見せます。忠勝は、本戦で奮戦したのはもちろんのこと、戦いが終わった後、敗走する島津軍の捨て身の追撃に徳川本陣が混乱した際には、またしても殿を務め、家康の危機を救いました。まさに生涯をかけて、「盾」としての役割を全うしたのです。

一方の直政は、この戦で徳川軍全体の軍監という重責を担っていましたが、戦端が開かれると、功を焦るあまりに「抜け駆け」の形で福島正則隊と共に先陣を切って敵陣に突撃します。規律を重んじる彼らしからぬ行動ですが、それこそが彼の本質である「矛」としての本能でした。しかし、この時に島津軍の追撃で負った鉄砲傷が悪化し、これが彼の命を縮める原因となってしまいます。

矛と盾が築いた泰平の礎

本多忠勝と井伊直政。徳川家への絶対的な忠誠心を象徴する「立葵」を掲げた譜代の臣と、自家の再興と誇りを象ยง徴する「橘」を掲げた外様の臣。この出自も性格も、そして忠義の形も全く異なる「最強の矛と盾」が、それぞれのやり方で家康に尽くしたからこそ、徳川の天下は盤石なものとなりました。それは、一つの価値観に染め上げるのではなく、多様な人材がそれぞれの誇りを持ち、その能力を最大限に発揮できる組織こそが強いという、現代にも通じる普遍的な真理を示しています。彼らが命を懸けて築いた礎の上に、二百六十年以上も続く江戸の泰平が花開いたのです。

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