戦国の知将、本多正信の足跡
本多正信は、1538年、三河国に生まれました。通称・弥八郎。徳川家康の忠臣として知られていますが、その人生は一筋縄では語れません。
正信は、家康が今川義元の命で丸根砦を攻めた際に従軍し、家康の家臣として活躍します。しかし、三河一向一揆が勃発すると、家康に背き、一揆側について戦います。このとき正信は出奔し、後に松永久秀のもとで仕えます。
信長すら手を焼いたとされる久秀から、「剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器」と評されたという逸話は、正信の非凡な才覚を物語っています。その後も一向一揆に参加するなど、諸国を放浪すること十九年──。ようやく徳川家に帰参したのは、大久保忠世のとりなしによるものでした。
文官としての才覚、そして家康との深い絆
再び仕えた正信は、武功ではなく政務の才によって頭角を現します。甲斐奉行、関東総奉行、町奉行を歴任し、行政面で徳川家を支える存在となりました。家康からの信頼は篤く、「家臣ではなく友」とまで言われたといいます。
加増を望まず、石高はわずか二万二千石。それでも幕政の中枢にあり続けた正信の姿勢は、実利を求めぬ誠実な姿として、後世に語り継がれます。
辞世の句に込められた忠臣の覚悟
そんな本多正信が遺した言葉は、辞世の句というより、まさに「遺言」としての重みを持ちます。
臣が微労を思召されて宗祠を在し給はんと思召さば 願わくば臣が子正純の封邑を増し賜ふことなかれ
「もし、家康公が臣のささやかな働きを思い、わが家に祠を建てようとお考えであるならば──せめて、子・正純の領地をこれ以上増やさぬよう願います。」
この言葉には、名誉や富を望まず、ただ主君のために尽くし続けた者の、静かな覚悟と謙虚な忠義がにじみ出ています。己が才によって家を興したにもかかわらず、それ以上の繁栄は戒めとしたのです。
しかし、息子・正純は忠告を守らず、十五万五千石への加増を受け入れました。そして後に「宇都宮釣り天井事件」で失脚。まさに父の言葉どおり、「過ぎたるは及ばざるがごとし」となってしまいました。
本多正信の辞世の言葉は、地味で華やかさはありません。しかしそこには、戦国という激動の時代を生き抜いた者だけが知る、「分を知る」ことの大切さが刻まれています。
現代においても、成果を求め過ぎるあまりに自らを滅ぼす例は少なくありません。正信の言葉は、「満ち足りる」ことの尊さ、「求めすぎぬ」ことの強さを、静かに私たちに問いかけているのです。
どれほどの功績を残そうとも──それを誇ることなく、ひとえに家と国のために尽くす。 そして、自らの繁栄すら慎むその姿に、真の知恵と誠の忠が宿ります。
おわりに
華々しい戦功よりも、深く静かな知略と忠義で時代を動かした男──本多正信。
その辞世の一句は、死に臨んでもなお、家と子の行く末を思う父のまなざしに満ちています。
「過ぎたるは、及ばざるがごとし」──現代にも通じるこの戒めが、正信の一生を締めくくる最後の教えとなりました。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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