三好吉房と日秀院(羽柴秀吉の姉)の子として1568年に生まれました。織田信長が本能寺の変によって倒れされると、羽柴秀吉は山崎の地にて 明智光秀軍を破りました。英次の初陣はこのときであったといわれています。
以降は羽柴秀吉の親族として、織田家における台頭に貢献しました。1583年の賤ヶ岳の戦いにも参陣し、軍功を上げました。しかし翌年の小牧・長久手の戦いでは、二万の軍勢の大将を務めたが、織田信雄、徳川家康の迅速な行動に翻弄され、散々に打ち破られました。
この局地戦では織田信雄、徳川家康に分があり、敗北を喫しました。秀吉はこの後長期戦に切り替え、小牧・長久手の戦いそのものは秀吉らの勝利に終わりましたが、秀次に対する秀吉の心証はやるせないものであったといわれています。
しかし、1585年の四国征伐では、長宗我部元親の討伐軍の中核をなし、軍功を上げました。秀吉もこの武功を評価したと言われています。その前の紀州征伐などの武功により、近江八幡山城周辺の領地四十三万石を与えられました。
小田原攻めでは豊臣軍の中核をなし、前哨戦の山中城攻撃で軍功を上げました。この戦いのさなか、奥州の伊達政宗らが秀吉に降伏したため、1591年奥州平定を主導しました。
織田信雄の旧領であった尾張、伊勢などを与えられ、百万石を越える領地を有していたといわれています。奥州平定の直後、秀吉の嫡男、鶴松が死去すると秀次は、秀吉の後継者として秀吉の関白職を引き継ぎました。
翌年1592年から文禄・慶長の役が始まり、秀次は、豊臣秀吉から国内統治の多くの権力を委譲されました。秀吉は太閤として依然強大な権力を有しており、二元政治とも言える体制が構築されていました。
1593年、秀吉に待望の男児、秀頼が誕生しました。秀吉はこの嫡男を溺愛し、養子たちにとって青天の霹靂となりました。
1595年、秀次は秀吉から謀叛の疑いをかけられ、関白職を剥奪されて高野山へと送られました。秀次の毅然とした態度、行動が秀吉を警戒させる要因になったと言われています。
秀吉と秀次は双方が行動を起こして秀頼と秀次の娘を婚約させるなどの融和策をとった時期もあったものの、結局ついに関係が修復されることはありませんでした。同年、秀吉の命により高野山において二十八歳で切腹しました。
豊臣秀次 辞世の句です。
月花を 心のままに 見尽くしぬ 何か浮世に 思い残さん
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