戦国時代、九州南部から怒涛の勢いで勢力を拡大した島津氏。その快進撃を支えた「島津四兄弟」(義久、義弘、歳久、家久)は、それぞれに個性豊かな名将として知られています。中でも三男・島津歳久(しまづ としひさ)は、優れた知略と冷静な判断力で、兄・義久を補佐し、島津家の軍師的な役割を担いました。
しかし、天下統一を進める豊臣秀吉に対しては、歳久は容易に屈しない強い反骨精神を貫きます。その姿勢が、後に悲劇的な最期を招くことになりました。家臣の反乱への関与を疑われ、実の兄たちから追討を受け、自害に追い込まれたのです。そんな歳久が遺したとされる辞世の句は、死を前にしてもなお、捉えどころのない、飄々とした謎めいた魅力を放っています。
晴蓑(せいさ)めが 玉のありかを 人とは(問は)ば いざ白雲(しらくも)の 末も知られず
島津の知恵袋、秀吉への反骨:島津歳久の生涯
島津歳久は、島津貴久の三男として生まれました。長兄・義久が当主として家全体を統率し、次兄・義弘と末弟・家久が勇猛果敢な武将として戦場で島津軍の強さを示す中、歳久は優れた知略と冷静な状況分析能力で、島津家の「知恵袋」「副司令官」として重要な役割を果たしました。肥後国(熊本県)の相良氏や菱刈氏との戦い、そして竜造寺氏との決戦となった沖田畷(おきたなわて)の戦いなど、島津氏が九州統一を進める上で、歳久の存在は欠かせませんでした。
島津家が九州の大部分を制圧し、その勢いが頂点に達しようかという矢先、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、その圧倒的な軍事力をもって九州へ侵攻してきます(天正14年、1586年からの九州平定)。島津家内部では、秀吉に恭順するか、徹底抗戦を続けるかで意見が激しく対立しますが、歳久は兄・義久と共に最後まで抵抗を主張した強硬派の一人でした。しかし、秀吉軍の物量と巧みな外交戦略の前に、島津家は最終的に降伏を受け入れざるを得ませんでした。
降伏後も、島津歳久は秀吉に対して、心から服従する姿勢を見せなかったとされます。秀吉が命じた朝鮮出兵(文禄の役)に際しても、病気を理由に出陣を拒否しました。その根底には、中央の巨大な権力に対する強い警戒心や、薩摩隼人としての独立自尊の精神、あるいは秀吉個人の成り上がりに対する反発など、複雑な思いがあったのかもしれません。
そんな中、文禄元年(1592年)、朝鮮出兵への不満などを背景に、歳久の家臣であった梅北国兼(うめきた くにかね)が肥後国で反乱を起こします(梅北一揆)。この事件に際し、かねてから秀吉に反抗的と見られていた歳久にも、「一揆を扇動したのではないか」「裏で糸を引いていたのではないか」という疑いの目が向けられました。秀吉は歳久に詰問の使者を送りますが、歳久はこれも病と称して面会を拒否。これが決定打となり、歳久は秀吉から謀反人と断定されてしまいます。
秀吉の厳しい命令を受け、島津家は家名を保つため、そして他の兄弟を守るために、苦渋の決断を下します。当主である兄・義久は、弟である歳久を追討することを家臣に命じました。実の兄から追われる身となった歳久は、薩摩国内を逃れますが、竜ヶ水(現在の鹿児島市)付近の心岳寺(現在は廃寺)で追っ手に追い詰められ、もはやこれまでと観念し、自害して果てました。享年56。知略に長け、島津家の躍進を支えた武将の、あまりにも悲しく、そして理不尽とも言える結末でした。
辞世の句に込められた心境:魂の行方、白雲の如し
兄に追われ、自害するという非情な最期を迎えた島津歳久。その辞世の句とされるのが、「晴蓑めが 玉のありかを 人とはば いざ白雲の 末も知られず」です。
「出家した私(晴蓑=歳久自身の法号)の魂(玉)が、死んだ後どこへ行ったのかと人が尋ねたならば、さあ、(こう答えてやろう)それはまるで白く漂う雲のように、その行方など誰にも分かりはしないのだ、と」。
「晴蓑(せいさ)」とは、歳久が出家した際の法号であり、自らを客観的に、そして少し突き放したように呼んでいます。「玉」は魂の美称です。この句からは、まず死後の世界のあり方や、自らの魂がどうなるのかということに対する、強いこだわりや執着が見られないことが分かります。極楽往生を切望するのでもなく、地獄行きを恐れるのでもなく、ただ「知られず」と、ある種の無関心さ、あるいは捉えどころのなさを表明しているかのようです。
「白雲」は、禅宗においてはしばしば、何物にもとらわれず、自由自在に移りゆく、無心や悟りの境地を象徴する言葉として用いられます。歳久もまた、禅的な思想に触れていた可能性があり、死を前にして一切の執着を離れた「白雲」のような心境に至っていたのかもしれません。そう解釈すれば、これは非常に達観した、穏やかな最期の言葉となります。
しかし一方で、この句には歳久らしい、一筋縄ではいかない皮肉や反骨精神も色濃く感じられます。「魂のありかなど分かるものか、知りたければ勝手に想像するがいい」という態度は、自らを謀反人として追い詰めた秀吉や、その意向に従わざるを得なかった兄たちに対する、最後の抵抗や当てつけのようにも受け取れるのです。「私の真意や魂の行く末など、お前たちには到底分かりはしないだろう」という、知将ならではの韜晦(とうかい:本心を巧みに隠し、相手を煙に巻くこと)が込められているとも解釈できます。
禅的な達観か、それとも反骨精神の最後の表明か、あるいはその両方が複雑に絡み合っているのか。いずれにせよ、死を目前にしてもなお、他者に容易に理解されることを拒むかのような、飄々として捉えどころのない、歳久の個性的な人物像が色濃く表れた、非常に興味深い一句と言えるでしょう。
島津歳久の生き様と、謎めいた辞世の句は、画一的な価値観に染まりがちな現代社会を生きる私たちにも、多様な視点や生き方のヒントを与えてくれます。
- 権力や時流との健全な距離感: 巨大な権力や、世の中の主流となっている考え方に対して、常に批判的な視点を持ち、安易に迎合しないという生き方。自分の信念や価値観を大切にし、主体的に判断することの重要性を示唆します。ただし、それが孤立や摩擦を生む可能性も認識する必要があります。
- 曖昧さや不可知なものを受け入れる: 世の中には、白黒はっきりつけられないこと、科学や論理だけでは説明できないこと、人間の理解を超えたことが数多く存在します。歳久の「末も知られず」という言葉は、そうした曖昧さや分からないことを無理に解明しようとするのではなく、あるがままに受け入れる心の余裕を持つことの大切さを教えてくれるかもしれません。
- 死生観の自由さ: 死後の世界について、特定の宗教観や固定観念にとらわれるのではなく、「白雲のように分からない」とする捉え方。これは、死への恐怖を和らげ、より自由で柔軟な心で生と死に向き合うための一つのヒントとなり得ます。
- 韜晦とユーモアの精神: 深刻な状況や困難な相手に対して、常に真面目に、真正面からぶつかるだけが能ではありません。時には韜晦の精神で本心を隠したり、軽やかに受け流したり、あるいはユーモアを交えて状況を相対化したりすることも、プレッシャーの中で心を保つための有効な知恵となりえます。
- 「自分らしさ」を貫く生き方: 周囲の評価や憶測に一喜一憂せず、最後まで自分自身の考え方やスタイル、美学を貫き通すこと。歳久の生き方は、他者にどう見られるかよりも、自分がどうありたいか、どう生きたいかを問い続けることの価値を示唆しています。
島津の知恵袋として家を支えながらも、中央の権力に屈することなく、最後は悲劇的な運命を辿った島津歳久。その辞世の句は、禅的な無心と、薩摩隼人らしい反骨の精神が絶妙に交じり合った、一筋縄ではいかない人物の奥深さを感じさせます。「白雲の末も知られず」――その言葉は、死をも飄々と受け流すかのような、独特の境地と孤高の魅力を、今も私たちに強く伝えています。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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