勝敗を論ぜず、ただ山は寒く水は清し ~垣並房清、厳島に散った禅の心~

戦国武将 辞世の句

戦国時代、天下分け目の戦いは数あれど、毛利元就が奇襲によって陶晴賢(すえ はるかた)の大軍を打ち破った「厳島の戦い」は、その劇的な展開で知られています。この戦いで、主君・陶晴賢と共に奮戦し、厳島の地に散った忠臣がいました。その名は、垣並房清(かきなみ ふさきよ)。陶晴賢の側近として、その最期まで付き従った武将です。

敗軍の将として死を目前にした房清が遺したとされる辞世の句は、勝敗や生死といった現世の価値観を超越し、禅的な悟りの境地を感じさせる、深く静謐な響きを持っています。

勝敗の迹(あと)を論ずること莫(なか)れ 人我(じんが)暫時(ざんじ)の情
一物不生(いちもつふしょう)の地 山寒うして海水清し

陶晴賢に殉じた忠臣:垣並房清とは

垣並房清は、大内氏の重臣であり、主君・大内義隆を討って(大寧寺の変)大内家の実権を握った陶晴賢に仕えた武将です。その出自は陶氏の一族とも、あるいは古くからの大内氏譜代の家臣であったとも言われ、詳しいことは定かではありませんが、晴賢からの信頼は厚く、その側近として重用されていたと考えられています。武勇にも優れた人物であったと伝えられています。

房清の運命を決定づけたのは、弘治元年(1555年)10月、安芸国(現在の広島県)の厳島で起こった戦いです。主君・陶晴賢は、急速に勢力を拡大する毛利元就を討伐し、中国地方における支配権を確立するため、2万とも3万ともいわれる大軍を率いて厳島に上陸しました。当時、元就が厳島に築いた宮尾城は、陶軍の敵ではありませんでした。垣並房清も、この大軍の主要な武将の一人として、主君と共に厳島へ渡ります。

しかし、これは毛利元就が仕掛けた巧妙な罠でした。陶の大軍を狭い厳島におびき寄せた元就は、暴風雨の夜陰に乗じて、わずかな手勢で海を渡り奇襲を敢行。完全に油断していた陶軍は、夜明けと共に大混乱に陥り、組織的な抵抗もできないまま壊滅状態となります。総大将の陶晴賢も、わずかな供回りと共に島内を逃亡しますが、もはやこれまでと悟り、自害して果てました。垣並房清も、この乱戦の中で主君を守るために奮戦したものの、力尽きて討ち死にした、あるいは主君・晴賢に殉じて自害したとされています。

辞世の句に込められた心境:一切の執着を超えて

主君と共に敗れ、死を目前にした垣並房清が遺したとされる漢詩、「勝敗の迹を論ずること莫かれ 人我暫時の情 一物不生の地 山寒うして海水清し」。

「この戦の勝敗の結果について、もはや論じる必要はない。人も我も(敵も味方も)、その感情(勝利の喜び、敗北の無念、憎しみなど)は、ほんの一時のものに過ぎないのだ。(万物の本質は)本来、何ものも生じていない、一切の分別や執着を超えた無の境地にある。ただ目の前には、山が寒々とそびえ、海水が清らかに澄み渡っているばかりだ」。

この句には、敗軍の将としての悔しさや無念、あるいは敵将・元就への恨みといった感情は一切見られません。「勝敗の迹を論ずること莫かれ」と、この世の価値基準である勝ち負けの結果をまず否定し、超越しようとしています。そして、「人も我も(敵も味方も)抱く感情は一時的なものだ」と、戦場の激しい情念からも心を解き放とうとしています。

さらに「一物不生(いちもつふしょう)の地」という禅語を用いることで、房清の精神が、勝敗、敵味方、善悪、生死といったあらゆる二元的な対立やこだわり、執着から解放された「空」や「無」の境地に至っていることを示唆します。最後の「山寒うして海水清し」という情景描写は、そうした悟りの境地から見た、ありのままの静謐な自然界の姿であり、同時に房清自身の澄み切った心象風景を映し出しているのかもしれません。

戦いに敗れ、命を落とすまさにその瞬間に、これほどまでに冷静で、深く達観した境地に至ることができたのはなぜでしょうか。そこには、死を恐れぬ武士としての覚悟はもちろん、日頃から禅の教えに親しみ、精神的な修養を積んでいた房清の姿が浮かび上がります。すべては空しく、一時的な現象であると悟ることで、房清は死の恐怖や敗北の無念を超越し、静かな心の平安のうちに最期を迎えたのではないでしょうか。

垣並房清の辞世の句は、競争が激しく、情報や感情に振り回されやすい現代を生きる私たちにも、心を静め、物事の本質を見つめるためのヒントを与えてくれます。

  • 結果への無執着: 成功や失敗、勝ち負けといった目に見える結果に一喜一憂しすぎず、その過程で得られた経験や学び、あるいは自身の成長そのものにも価値を見出す視点。結果が全てではないと知ることで、プレッシャーから解放され、より柔軟な思考が可能になります。
  • 感情との適切な距離: 怒り、悲しみ、嫉妬、喜びといった一時的な感情に心を奪われず、一歩引いて冷静に自分自身や状況を見つめること。感情を客観視する訓練は、ストレスマネジメントにも繋がり、より良い判断や行動を促します。
  • 「空」や「無」の思想と心の自由: あらゆるこだわりや執着を手放した先にある、心の静けさや自由。禅的な考え方に触れることは、情報過多で変化の激しい現代社会において、心の平安を保ち、本質を見抜く力を養う助けとなるかもしれません。
  • 自然との対話、あるがままを受け入れる: 房清が最後に見た(であろう)「山寒うして海水清し」というありのままの自然の風景。時に雄大な自然の中に身を置き、その静けさや摂理に触れることは、日常の悩みやこだわりを相対化し、心をリフレッシュさせ、あるがままを受け入れる感覚を思い出させてくれます。
  • 潔く受け入れる強さ: 避けられない運命や、自分の力では変えられない現実を前にした時、嘆き悲しむだけでなく、それを潔く受け入れるという精神的な強さ。房清の態度は、困難な状況との向き合い方の一つとして、深い感銘を与えます。

厳島の露と消えた忠臣、垣並房清。その辞世の句は、敗北や死という究極の状況において到達しうる、人間の精神的な高みと静謐な美しさを感じさせます。勝敗を超え、感情を超え、ただ自然の理(ことわり)の中に自らを置いた房清の心境は、時代を超えて私たちの心に深く静かに響きわたるようです。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました