忠義と勇猛の武将、鬼作左・本多重次の日本一短い手紙です。

名将の名言

本多重次は、1530年に現在の愛知県岡崎市宮地町で生まれました。幼名は八蔵。彼はわずか7歳で松平清康(家康の祖父)に仕え、以降、広忠(家康の父)、家康と三代にわたって仕え続けました。

忠義と勇猛さで名を馳せた武将

重次は、戦いにおいても政務においても抜群の才能を発揮しました。特に1565年には、天野康景、高力清長とともに「三河三奉行」の一人に任命され、民政を担当しました。

彼の性格は、勇猛果敢で剛毅、そして正直。主君・家康にも臆せず意見を述べるほどのまっすぐな人物でした。その姿勢は戦場でも顕著で、「鬼作左」や「鬼殿」と呼ばれるほどの豪傑でした。

三方ヶ原の戦いでの決死の奮闘

1573年、武田信玄率いる3万の軍勢に対し、家康軍は総崩れ。重次も瀕死の重傷を負い動けない状態に。それでも、家康が必死に退却するのを目にすると、力を振り絞って敵を振り払い、馬を奪って家康を追いかけ、彼が無事に逃げ切るまで守り抜きました。

長篠の戦いと「日本一短い手紙」

1575年の長篠の戦いでは、重次は多くの敵を討ち取る活躍を見せました。その戦場から妻に送った手紙が、後に「日本一短い手紙」として知られるものです。

一筆啓上 火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ

おせんとは、彼の長男・仙千代(後の本多成重)を指します。つまり、「火事に気をつけて、子どもを泣かせず、馬をしっかり育てよ」という、短いながらも家庭への思いやりが込められた言葉でした。この手紙を記念した碑が、彼の子孫が藩主となった越前丸岡城に建てられています。

秀吉との確執と晩年

重次は、豊臣秀吉に対しても媚びることなく、頑固な姿勢を貫きました。そのため、秀吉の怒りを買い、何度も処分されそうになりました。

1586年、家康が秀吉の要請で上洛するとき、重次は秀吉の母・大政所の護衛を命じられましたが、敵対の可能性を考え、居館の側に薪を積み、いざとなれば火をつける準備までしていました。こうした姿勢が秀吉の不興を買ったと言われています。

さらに、「岡崎城見参御免事件」などが重なり、秀吉はついに家康に重次の処刑を命じます。しかし家康は、「重次は病死した」と偽り、彼を上総国古井戸へ隠遁させました。重次もそれに不平を漏らさず、ひっそりと暮らしました。

その後、重次は現在の千葉県にあたる下総国相馬郡井野で68歳の生涯を閉じました。

本多重次の生き様から学ぶこと

本多重次の生き方には、現代にも通じる教訓があります。

  • 忠義を貫く姿勢 – どんな逆境でも主君に尽くし、最後まで信念を曲げなかった。
  • 率直な意見と行動力 – 家康にも、豊臣秀吉にも媚びず、正しいと思うことを貫いた。
  • 簡潔で的確なコミュニケーション – 「日本一短い手紙」に象徴される、無駄のない伝達力。

重次はただの戦国武将ではなく、現代の私たちにとっても「信念を持って生きることの大切さ」を教えてくれる存在です。
この記事を読んでいただきありがとうございました。

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