東海道五十三次の作者は誰?
私が学生の時に、良くテストで出題されていました。
その時の答えは、安藤広重です。
しかし、最近は違うようです。
子供の宿題で、東海道五十三次の作者は誰?と聞かれて
「安藤広重だ」と答えると
「そんな名前ではなかった」と子供がいいます。
子供の教科書で、東海道五十三次の作者を調べてみると
東海道五十三次の作者は、歌川広重と書いてありました。
「広重は同じだけど・・・おかしいな」
いつ頃、名前が変わったのでしょうか?
歌川広重の生い立ち
歌川広重は、江戸の町火消の安藤源右衛門の子として生まれました。
本名は安藤重右衛門。
その後、歌川豊広に入門して浮世絵師となりました。
美人画、武者絵、おもちゃ絵、役者絵や挿絵など幅広く活動。
「東海道五拾三次」で風景画を手掛け人気となり、風景画家としての地位を確立しました。
作品に「木曾海道六拾九次」「名所江戸百景」などあります。
なぜ名前が二つあるのでしょうか?
広重は安藤家の出身ですが、絵師として安藤広重を名乗ったことはありません。
広重という名前は師匠の歌川豊広から与えられました。
歌川派といわれる一門の絵師としての名前です。
歌川豊広の広と、本名の重右衛門の重をとった雅号で、歌川派の絵師であることから、歌川広重と呼ぶようになりました。
そのため安藤広重よりも、絵師としての名前である歌川広重として紹介されています。
東海道五十三次の作者の名前が変わったのはいつ?
東海道五十三次の作者の名前が「安藤広重」から「歌川広重」へと統一されたのは、2017年の学習指導要領の改訂においてです。これは、近年の学術研究に基づき、教科書や学校での教育資料で使用される名前が変更されたものです。
次期学習指導要領改定案では、近年の学術研究を踏まえ、江戸時代の浮世絵師「安藤広重」は、雅号である「歌川広重」に統一しました。
社会のテストに「東海道五十三次」の作者名を述べなさい、という問題の答えは?
その正解が「歌川広重」に変わることになるようです。
東海道五十三次とは
歌川広重の「東海道五十三次」は、江戸時代を代表する浮世絵作品です。この作品は、江戸から京都を結ぶ東海道沿いの53の宿場町を描いたものです。
広重は、自然の風景だけでなく、旅人や町の人々の様子も細かく描写しました。そのことで、当時の東海道を旅する様子が生き生きと伝わってきます。
「東海道五十三次」は、単に景色を描いた作品ではなく、当時の旅の雰囲気や人々の暮らしを記録した作品ともいえます。そのため、日本の歴史や文化を知るうえでも重要な作品となっています。
東海道に設けられた53の宿場町。
江戸時代に入って江戸幕府が開かれると、旅行者のための厩舎、食事処、宿泊所が利用できるように、江戸と京とを結ぶ東海道は特に整備されました。
その町が東海道に五十三箇所置かれたので、「東海道五十三次」と呼ばれるようになったそうです。
歌川広重による浮世絵木版画
歌川広重の「東海道五十三次」は出発地と到着地を足した55の作品です。
日本橋
品川
川崎
神奈川
保土ヶ谷
戸塚
藤沢
平塚
大磯
小田原
箱根
三島
沼津
原
吉原
蒲原 (かんばら)
由比 (ゆい)
興津
江尻
府中
鞠子 (まりこ)
岡部
藤枝
島田
金谷
日坂 (にっさか)
掛川
袋井
見付
浜松
舞坂
荒井
白須賀
二川
吉田
御油 (ごゆ)
赤坂
藤川
岡崎
池鯉鮒 (ちりふ)
鳴海
宮 (熱田)
桑名
四日市
石薬師
庄野
亀山
関
坂ノ下
土山
水口
石部
草津
大津
京都
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