信仰と武士の狭間で ~内藤如安、キリシタン禁制に散った悲劇~

戦国武将一覧

戦国という、人が人の命を奪い合い、明日をも知れぬ時代がありました。武士たちは己の力や主君への忠誠を頼りに生き抜こうとしましたが、その中にあって、全く異なる光を宿し、信念を貫こうとした一人の武将がいます。彼の名は、内藤如安。戦国の世にあって、深くキリスト教を信仰し、その信仰ゆえに激動の生涯を送ることになった稀有な存在です。内藤如安の歩んだ道は、武力や権謀術数が渦巻く時代に、信仰という揺るぎない柱を持って生きた人間の、哀しくも気高い物語を私たちに伝えてくれます。

信仰に生きた若き日々

内藤如安は、永禄年間(1558年~1570年)頃に生まれたと伝えられています。大和国の有力な国人であり、後に織田信長をも恐れさせた梟雄、松永久秀とその子・久通に仕えた内藤宗勝の子として育ちました。内藤家は武家の家柄でしたが、如安自身は幼い頃から父と共にキリスト教の宣教師と交流する機会に恵まれたようです。当時の京や畿内は、キリスト教の布教が比較的盛んに行われていた地域でした。

内藤如安は、宣教師たちの教えに触れる中で、次第にキリスト教の信仰に惹かれていきます。そして、1564年頃、若干14歳という若さで洗礼を受けました。この時の洗礼名が「ジョアン」でした。内藤如安と呼ばれるのは、この洗礼名に由来しています。武士という立場でありながら、内藤如安は熱心なキリシタンとして信仰生活を送るようになります。内藤如安の父、宗勝もまた如安の影響を受けてキリシタンになったと言われており、内藤家は畿内でも知られたキリシタン大名(正確には国人領主ですが)の家となりました。

松永家に仕える武将として、内藤如安は各地の戦陣を駆け巡ります。父と共に多聞山城の戦いなどに参加し、武功を挙げました。武士としての務めを果たしながらも、内藤如安の心には常にキリスト教の教えがありました。殺生を旨とする戦場で生きる武士にとって、隣人愛や許しを説くキリスト教の信仰を保ち続けることは、どれほどの葛藤を伴ったことでしょうか。その激しい心の内に秘めた思いは、内藤如安に会った宣教師たちが彼の誠実さや信仰の深さを特筆していることからも窺い知ることができます。

時代の波と誠実な奉公

松永家が織田信長によって滅ぼされた後、内藤如安は織田信長に仕えることになります。信長は南蛮文化に理解があり、キリスト教に対しても比較的寛容な姿勢を示していました。内藤如安は信長のもとで、武将としてだけでなく、その教養や語学力を活かして外交面で重用されるようになります。イエズス会との連絡役を務め、宣教師たちの便宜を図ることもありました。

内藤如安は、信長に拝謁する際に、武具を身につけず、キリスト教徒としての平服で謁見したという逸話も残っています。これは、武士としての立場よりも、キリスト教徒としての信仰を優先するという内藤如安の強い意志を示す出来事と言えるでしょう。信長もまた、内藤如安の信仰に対する真摯な姿勢を理解し、その忠誠心を評価していたようです。

信長が本能寺の変で倒れた後、内藤如安は豊臣秀吉に仕えました。秀吉も当初はキリスト教に対して好意的でしたが、次第にその態度を硬化させ、1587年にはバテレン追放令を発布します。内藤如安にとって、これは信仰を揺るがす大きな出来事でした。武将としての務めと、信仰者としての良心の板挟みになったことでしょう。それでも、内藤如安は直ちに信仰を捨てることはありませんでした。

秀吉の時代には、加賀の前田利家に仕えることになります。前田利家は、内藤如安の武将としての能力はもちろん、その教養や外交手腕を高く評価しました。加賀藩の家老として、内藤如安は領内の統治や、大坂の豊臣政権との交渉などで重要な役割を果たしました。前田家のもとで、内藤如安は比較的平穏な日々を過ごすことができたかもしれません。同時に、世の中のキリスト教徒に対する風当たりは、日増しに強くなっていました。

信仰を選び、海を渡る

豊臣秀吉の死後、天下の実権は徳川家康に移ります。家康もまた、当初はキリスト教に対して融和的な姿勢を見せることもありましたが、やがて宣教師や信徒に対する警戒心を強めていきました。そして、慶長17年(1612年)に直轄領への禁教令を出し、慶長18年(1613年)には全国に向けてキリシタン追放令を発布します。これは、内藤如安にとって、人生最大の試練となりました。

キリスト教を棄てて武士として生きるか、それとも信仰を貫いてすべてを捨てるか。前田利家の死後、子の前田利長、そして利常に仕えていた内藤如安に対し、前田家はキリスト教を棄てるよう説得しました。もし棄教すれば、引き続き家臣として厚遇することを約束されたのです。武士として仕えた主君からの温情、長年築き上げてきた地位や名誉、そして故郷を離れることへの寂しさや不安。内藤如安の心は千々に乱れたに違いありません。

けれども、内藤如安は迷うことなく信仰の道を選びました。長年かけて培ってきた信仰は、武士としての生き方よりも、彼の心の中で大きな比重を占めていたのです。内藤如安は前田家の説得を丁重に断り、すべての地位を返上しました。そして、慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、高山右近や他の多くのキリスト教徒たちと共に、日本から追放されることになったのです。

内藤如安たちは、長崎から船に乗り、遠い南の海へと旅立ちました。彼らが目指したのは、スペインの植民地であったフィリピンのマニラでした。故郷の土を踏むこと叶わない、二度と日本の地に戻ることのない旅立ちでした。船上から眺める日本の海岸線は、内藤如安の目にどのように映ったことでしょうか。愛する故郷を離れる悲しみ、それでも信仰を貫く清々しさ、そして異国の地での未知なる生活への不安。様々な感情が内藤如安の胸中に去来したに違いありません。

遠い異国に散った光

マニラに到着した内藤如安たち一行は、現地のスペイン人やフィリピン人のキリスト教徒たちから熱烈な歓迎を受けました。信仰を理由に追放されてきた日本のキリスト教徒たちは、彼らにとって尊敬の対象だったのです。内藤如安はマニラで信仰生活を送ることができましたが、日本政府との関係を考慮したスペイン当局により、表立って布教活動を行うことは許されませんでした。

異国の地で、内藤如安は静かに信仰の道を歩みました。これまでの激動の生涯とは異なり、戦や政争から離れた穏やかな日々だったのかもしれません。故郷への思い、日本に残してきた人々のことを思うたび、内藤如安の心は締め付けられたことでしょう。

マニラに到着してわずか数ヶ月後の慶長19年12月13日(グレゴリオ暦1615年1月12日)、内藤如安は異国の地で病にかかり、その生涯を閉じました。享年65歳前後と伝えられています。遠いマニラの空の下、誠実に信仰を貫いた一人の武将は、ひっそりと息を引き取ったのです。

誠と信仰に生きた軌跡

内藤如安の生涯は、戦国時代の武将としては、その多くが武勲や権力拡大に明け暮れた時代にあって、全く異なる価値観に生きたことを示しています。内藤如安は、武士として優れた能力を持ちながら、それ以上にキリスト教の信仰を大切にしました。激しい時代の流れの中で、主君に仕え、戦場で功を挙げ、内政や外交で手腕を発揮する傍ら、常に信仰を心の拠り所としていたのです。

豊臣秀吉や徳川家康によるキリスト教徒弾圧が厳しさを増すにつれて、内藤如安は武士としての地位と信仰との間で、究極の選択を迫られました。その末に、内藤如安はすべてを捨てて信仰を貫く道を選びました。それは、当時の日本の価値観からすれば、理解されがたい選択だったかもしれません。家名や地位を捨ててまで、何の見返りもない信仰に殉じる生き方。そこに、内藤如安という人物の、類稀なる精神の強さと誠実さを見ることができます。

異国の地で迎えた内藤如安の最期は、華々しいものではありませんでした。けれども、内藤如安は最後まで己の信念を曲げることなく、信仰と共に生き抜いたのです。内藤如安の生涯は、戦国の世にあって、力や欲望だけではない、人間の精神の気高さや、揺るぎない信仰心の尊さを私たちに静かに語りかけています。困難な時代にあっても、己の信じる道を一途に歩んだ内藤如安の生き様は、現代を生きる私たちにも、何か大切なことを教えてくれているのではないでしょうか。歴史の波間に埋もれがちですが、その確かな輝きは、今もなお人々の心に響く誠と信仰の物語として語り継がれていくことでしょう。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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