かつての日本のオフィスでは、「田中部長」「佐藤課長」といった「役職呼び」が、上司への敬意を示す絶対的なマナーとされていました。しかし、近年、IT企業やスタートアップを中心に、組織のフラット化を目指し、社長や部長も含めて全社員を「〇〇さん」と呼ぶ「さん付け」ルールを導入する企業が増えています。
この変化は、転職者や新入社員にとって、深刻な「呼称の混乱」を生み出しています。新しい職場の上司を「さん付け」で呼ぶことは、果たしてマナー違反にあたるのでしょうか。それとも、役職で呼ぶことこそが、その会社の文化に反する「古いマナー」となってしまうのでしょうか。
本記事では、この社内呼称の新常識について、伝統的な「役職呼び」と新しい「さん付け」の目的を構造的に分析します。そして、あなたが今いる(あるいはこれから入る)会社で、上司を「さん付け」で呼ぶのが「アリ」なのか「ナシ」なのかを判断するための、具体的なチェックリストをご紹介します。
呼称が混在する背景:「役職呼び」と「さん付け」の目的
呼称のマナーを判断する前に、まず、なぜこの二つの呼び方が混在しているのか、それぞれが持つ本来の目的を理解する必要があります。
伝統的な「役職呼び」(例:田中部長)の目的
伝統的な「役職呼び」は、単なる呼称ではなく、組織の秩序を維持するための機能を持っていました。
- 秩序の維持と敬意の明確化:呼称に役職を付けることで、社内のヒエラルキー(上下関係)を明確にし、誰がどの立場で、誰に敬意を払うべきかを視覚化・聴覚化する役割がありました。
- 責任と権限の明示:「部長」と呼ぶことは、その人がその部門の「最終的な責任者・決定権者である」ことを、社内全体で常に確認する行為でもありました。
新しい「さん付け」ルールの目的
一方、「さん付け」ルールは、この伝統的な構造が持つデメリット、すなわち「硬直化」を打破するために導入されます。
- 心理的安全性の確保:「部長」という肩書きは、部下にとって「反論しにくい」「意見を言いづらい」という心理的な壁(バイアス)を生み出します。「さん付け」にすることで、この壁を取り払い、役職に関係なく誰もが自由に発言できる「心理的安全性」の高い環境を目指します。
- コミュニケーションのフラット化と迅速化:役職というフィルターを外すことで、「個人」対「個人」のコミュニケーションを促進します。これにより、アイディアの創出(イノベーション)や、部門を超えた柔軟な連携、意思決定の迅速化を図る狙いがあります。
「さん付け」はマナー違反か?:結論は「会社のルール次第」
では、本題である「上司へのさん付けはマナー違反か」という問いですが、結論から言えば、「その会社のルールや文化に従っている限り、マナー違反ではない」となります。
ビジネスマナーとは、相手に不快感を与えず、円滑なコミュニケーションを行うための「共通認識」です。「さん付け」を公式ルールとして採用している会社(コミュニティ)においては、「さん付けで呼ぶこと」こそが正しく、逆に「役職呼び」を固辞することのほうが、その会社の文化を尊重しない「マナー違反」と見なされる可能性すらあります。
マナー違反かどうかは、言葉そのものではなく、「そのコミュニティ(会社)の規範に従っているかどうか」で決まるのです。
アリ・ナシ判断チェックリスト:あなたの上司は「さん付け」OK?
では、あなたが今いる(あるいは転職先の)環境が、「さん付け」が「アリ」なのか「ナシ」なのかを判断するためのチェックリストをご紹介します。
「さん付け」が「アリ」(OK)なケース
以下の項目に多く当てはまるほど、「さん付け」で呼ぶことが推奨される環境です。
- 会社として「さん付けルール」が公式に導入・推奨されている。
- IT企業、スタートアップ、外資系企業など、フラットな組織文化を持つ業界である。
- 上司自身が、自己紹介や日々の言動で「〇〇さんと呼んでください」と公言している。
- 自分以外の先輩社員や同僚が、その上司を自然に「さん付け」で呼んでいる。
- 社長や役員も含めて、全社的に「さん付け」が浸透している。
「さん付け」が「ナシ」(NG・要注意)なケース
以下の項目に当てはまる場合は、「さん付け」を避け、「役職呼び」または「〇〇さん(役職)」といった、より丁寧な呼称を選ぶのが無難です。
- 金融機関、官公庁、伝統的な製造業など、厳格なヒエラルキーを重んじる業界である。
- 社内の誰もその上司を「さん付け」で呼んでおらず、「役職呼び」が慣習として根付いている。
- 上司が明らかに「役職呼び」を好む(または「さん付け」を嫌う)態度を示している。
- 転職したばかりで、まだ会社の呼称ルールや文化を正確に把握できていない。
- 「さん付け」ルールはあるものの、実態は形骸化しており、ベテラン社員は役職で呼び合っている。
判断に迷った場合は、直属の先輩や同僚に「〇〇(上司)のことは、普段何とお呼びしていますか?」と率直に確認することが、最も確実で失礼のない方法です。
最大の注意点:「さん付け」ルールと「社外敬語」は別物
「さん付け」ルールを導入している会社で働く上で、最も重大なマナー違反となるのが、この社内ルールを「社外」に持ち出してしまうことです。
社外での「内(うち)」と「外(そと)」の原則
日本語の敬語には、「内(うち)」と「外(そと)」という絶対的な原則があります。社外の取引先やお客様(外)と話す際、自社の人間(内)は、たとえ社長であっても**「身内」**という扱いになります。
お客様(外)に対して、身内(内)である上司を「田中さん」や「田中部長」と呼ぶことは、身内を高めることになり、お客様への敬意を欠く重大なマナー違反となります。これは、社内ルールがどうであれ、変わりません。
社内ルールと社外ルールの正しい使い分け
正しい使い分けは以下の通りです。
- 社内(さん付けルールの場合):「田中さん、この件ですが、いかがでしょうか。」
- 社内(役職呼びルールの場合):「田中部長、この件ですが、いかがでしょうか。」
- 社外(お客様との会話で、上司について話す場合):「(弊社の)田中が申しておりました通り…」
「(弊社の)部長の田中は、ただいま席を外しております。」 
社内では「さん付け」がルールでも、社外では「呼び捨て(または、役職+呼び捨て)」が鉄則です。この切り替えができてこそ、真のビジネスマナーが身についていると言えます。
まとめ:呼称は文化。TPOの理解こそが真のマナー
上司を「さん付け」で呼ぶことは、それ自体がマナー違反なのではなく、会社の文化(ルール)次第です。新しい常識が生まれている現代において、真のマナーとは、古い慣習を守り続けることではなく、今いる場所の文化を正しく理解し、それに適応することです。
本記事のチェックリストを参考に、まずはあなたの会社の「内」のルールを把握してください。そして、それと同時に、「外」の相手と話す際の敬語の原則を決して混同しないこと。この「TPO」の使い分けをマスターすることこそが、社内呼称の新常識における、最も重要なビジネスマナーです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
