後の天下人、徳川家康。その名を冠するイメージは「慎重」「忍耐」「狸親父」など、老獪で我慢強いものが多いかもしれません。しかし、それは幾多の苦難を乗り越え、戦国の世を統一した後の姿。30歳の若き家康は、血気にはしり、プライドを優先し、そして人生最大の過ちを犯しました。
それが、当時最強と謳われた武田信玄に挑み、文字通り「死」を覚悟させられた「三方ヶ原の戦い」(元亀三年十二月二十二日、西暦1573年1月25日)です。この戦いは家康に消すことのできない屈辱的な逸話と、多くの忠臣の死という深い傷跡を残しました。しかし、偉大なリーダーは失敗から学びます。家康はこの惨敗をただの恥で終わらせず、生涯の教訓として自らの血肉に変えていきました。
この記事では、家康が生涯の戒めとした「しかみ像」と、その旗印に込めた想いを深掘りし、私たちが現代社会で直面する困難や失敗を乗り越え、成長するためのヒントを探ります。
若き家康、なぜ「人生最大の過ち」を犯したのか
信長包囲網と武田信玄の西上作戦
戦いの舞台となった元亀3年(1572年)、日本は混沌の渦中にありました。尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、天下統一への歩みを進める一方、その急進的なやり方は各地の有力大名の反発を招き、「信長包囲網」が形成されつつありました。その包囲網の最大の核として期待されていたのが、「甲斐の虎」武田信玄です。
信玄は将軍・足利義昭からの要請を受け、2万5千を超える大軍を率いて京を目指す「西上作戦」を開始します。その進路上に位置していたのが、信長の同盟者であり、遠江(静岡県西部)と三河(愛知県東部)を治める徳川家康でした。兵力はわずか8千。同盟者である信長も各地で敵を抱えており、佐久間信盛らが率いる3千ほどの援軍しか送れない状況でした。兵力差は歴然であり、まともに戦えば勝ち目がないのは誰の目にも明らかでした。
挑発と焦り ― 決戦へと向かう家康の心理
当初、家康も重臣たちも、本拠地である浜松城での籠城が最善策だと考えていました。浜松城は堅城であり、籠城して信長のさらなる援軍を待てば、活路は見いだせるはずでした。しかし、戦国最強の武将と謳われた信玄は、軍略だけでなく人心の掌握術にも長けていました。信玄は、家康の心理を巧みに揺さぶります。
武田軍は浜松城を攻撃する素振りも見せず、城を素通りして西の三河方面へと軍を進めようとしました。これは「お前など歯牙にもかけぬ」「戦う価値もない」という、信玄からの無言の、しかし何よりも強烈な挑発でした。当時30歳、血気盛んな家康にとって、これは耐え難い屈辱です。
さらに、家康には政治的な焦りもありました。遠江はまだ完全に掌握したとは言えず、国衆(その土地の武士たち)の中には武田になびく者もいる不安定な状況でした。ここで戦いを避けて城に籠もれば、「家康は武田を恐れて逃げた」という噂が広まり、国衆たちの心が離れてしまう危険性があったのです。家康にとって、この戦いは軍事的なものだけでなく、自身の威信をかけたパフォーマンスでもありました。
酒井忠次や石川数正といった歴戦の重臣たちが必死に籠城を説くも、若手武将たちの「戦うべき」という声にも後押しされ、家康は「一戦交えねば武士の面目が立たぬ!」と、城から打って出るという最悪の決断を下してしまいます。老練な信玄の掌の上で、若き家康はまんまと決戦の地へとおびき出されたのです。
三方ヶ原の惨劇 ― 忠臣たちの死と屈辱の敗走
最強軍団・武田の戦術
三方ヶ原の台地で徳川軍を待ち受けていたのは、信玄が敷いた最強の陣形「魚鱗の陣」でした。魚の鱗のように部隊を配置し、波状攻撃を仕掛ける攻撃的な陣形です。対する徳川軍は防御に適した「鶴翼の陣」で応戦しますが、兵の練度、士気、そして何より指揮官の経験値が違いすぎました。
午後4時頃、戦いの火蓋が切られると、武田軍の猛将・山県昌景率いる赤備え隊が徳川軍の右翼に襲いかかります。徳川軍も奮戦しますが、武田軍の厚い選手層の前に、わずか2時間ほどで陣形は崩壊。徳川軍は総崩れとなり、死体の山を築きました。
身代わりとなった忠臣たち
家康自身も敵兵に囲まれ討ち死にを覚悟するほどの混乱の中、多くの忠臣たちが彼の身代わりとなって散っていきました。家康の歴史は、こうした忠臣たちの犠牲の上に成り立っています。
家康が幼い頃からの譜代の臣・夏目吉信は、敗走する家康に追いつくと、「若き頃より世話になった御恩、今こそ返します」と告げ、馬首を返します。そして「我こそは徳川家康なり!」と大音声に叫び、自らが家康の影武者となって武田軍に突撃し、壮絶な討ち死を遂げました。
本多忠勝の叔父である本多忠真は、殿(しんがり)を務め、家康を逃がすために最後まで奮戦。「我が殿を討たせるものか」と仁王立ちで敵を防ぎ、命を落としました。他にも多くの家臣が、主君の未来を信じてその命を散らせていったのです。
空城の計と脱糞事件
多くの犠牲の上に、家康はわずかな供回りとともに命からがら浜松城へ逃げ帰ります。この敗走の最中、あまりの恐怖と緊張から家康が馬上で失禁、脱糞したという逸話は有名です(この時、家臣に指摘され「これは味噌だ」とごまかしたとも言われますが、後世の創作という説が有力です)。しかし、この逸話は彼の精神が極限状態にあったことを象明するエピソードとして、今なお語り継がれています。
城にたどり着いた家康ですが、危機は去っていませんでした。武田軍の追撃は目前に迫っています。ここで家康は、後の彼を彷彿とさせる大胆な策に出ます。城門をすべて開け放ち、かがり火を盛大に焚かせ、城内を無防備に見せかけたのです。いわゆる「空城の計」です。追撃してきた山県昌景は、これを罠だと警戒し、城内に突入するのをためらいました。この一瞬の判断が、家康の命を救ったのです。
屈辱を刻む一枚の絵 ―「しかみ像」の深層心理
なぜ情けない姿を描かせたのか
九死に一生を得て一夜を明かした家康。しかし、彼の心は悔しさ、情けなさ、そして多くの家臣を死なせた罪悪感で張り裂けんばかりでした。しかし、彼はただ嘆き悲しむだけでは終わりません。驚くべきことに、城の絵師を呼びつけ、こう命じたのです。
「今のわしの姿を、ありのままに描け。この屈辱と無念の表情を、決して忘れることのないように」
こうして描かれたのが、憔悴しきり、苦渋の表情で顔をしかめる家康の肖像画、通称「しかみ像(顰像)」です。通常、為政者は自らの威厳を示すために立派な肖像画を描かせます。しかし家康は、人生で最も惨めで情けない姿をあえて形に残しました。これは単なる自戒のためだけではありませんでした。この絵には、家康のリーダーとしての覚悟が込められています。
第一に、「失敗の客観視」。感情に溺れるのではなく、自らの惨めな姿を客観的に見ることで、なぜ負けたのか、何が足りなかったのかを冷静に分析しようとしました。
第二に、「教訓の可視化」。人間は過ちを忘れる生き物です。だからこそ、自分が慢心したり、怒りで判断を誤りそうになったりした時にこの絵を見ることで、「あの日の過ち」を強制的に思い出し、冷静さを取り戻すための「錨(いかり)」としたのです。
第三に、「組織へのメッセージ」。この絵は家臣団にも示されたと言われます。それは「この敗北を決して忘れるな。皆でこの屈辱を乗り越え、いつか武田に勝つぞ」という無言のメッセージとなり、多くの仲間を失った家臣団の心を逆に一つにする効果をもたらしました。
旗印に宿る誓い ― 敗戦が深化させた「厭離穢土欣求浄土」
家康の自戒は、「しかみ像」だけに留まりません。彼の旗印である「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」にも、その思想が色濃く反映されています。
この言葉は浄土宗の教えに由来し、「戦乱で汚れたこの世(穢土)を厭い、平和で安らかな世界(浄土)を心から願い求める」という意味です。家康がこの旗印を使い始めたのは、かつて三河で起きた一向一揆での苦い経験がきっかけでした。家臣団が宗教によって二分され、骨肉の争いを繰り広げた際、家康は戦の虚しさを痛感したのです。
そして、三方ヶ原で夥しい死を目の当たりにしたことで、この言葉は単なる理想から、生涯をかけて成し遂げるべき現実的な目標へと変わりました。目先の勝利に一喜一憂し、プライドのために無謀な戦いを挑む愚かさを骨身にしみて理解した家康。ここから彼の戦いは、勝利のためではなく、「戦をなくすための戦い」へと大きく舵を切っていくのです。この旗印は、260年続く江戸泰平の世を築く、家康の行動原理そのものとなっていきました。
【現代に学ぶ】家康の敗戦から私たちが得るべき教訓
徳川家康の三方ヶ原でのエピソードは、単なる歴史物語ではありません。変化が激しく、予測不可能な現代を生きる私たちの仕事や人生にも通じる、普遍的な教訓に満ちています。
失敗を「可視化」し「共有」する力
失敗は誰にとっても辛い経験であり、できれば隠したいものです。しかし、隠された失敗は組織を蝕む病巣となります。家康が「しかみ像」を描かせたように、失敗をタブーとせず、原因を分析し、チームの共有資産とする文化が重要です。ビジネスの世界で言えば、プロジェクトの失敗を正直に報告し、その教訓をナレッジとして蓄積する「ポストモーテム(事後検証)」の文化がこれにあたります。失敗を個人の責任で終わらせず、組織の成長の糧に変えるのです。
短期的な感情より、長期的なビジョン
SNSでの批判や、競合他社の挑発に感情的に反応してしまい、本質を見失っていないでしょうか。若き家康は、信玄の挑発という短期的な感情に流され、大局を見誤りました。しかし、この大敗から「戦のない世を作る」という長期的なビジョンを確立します。困難な時、迷った時こそ、自分が本当に達成したい目標や、組織が掲げる理念・パーパスに立ち返ることが、正しい判断を下すための羅針盤となります。
弱さを開示できるリーダーシップ
現代のリーダーシップ論では、リーダーが自らの弱さや不完全さを見せることの重要性が説かれています。家康が自らの最も情けない姿をさらけ出したように、リーダーが弱さを見せることは、チームに「失敗しても大丈夫だ」という心理的安全性をもたらし、メンバーが萎縮せずに挑戦しやすい環境を作ります。完璧なリーダーがチームを率いるのではなく、不完全なリーダーがチームと共に成長していく。それが現代における理想のリーダー像の一つです。
天下統一という偉業は、勝ち続けたから成し得たのではありません。人生最大の敗北から、誰よりも深く、多くのことを学んだからこそ、徳川家康は天下人となれたのです。私たちの目の前にある失敗もまた、自分を大きく成長させてくれる「しかみ像」なのかもしれません。
この記事を読んでいただきありがとうございました。