はじめに―「反骨」という名の猛将
「黒田二十四騎」「黒田八虎」の筆頭。豊臣秀吉をして「日本無双の槍」と言わしめたほどの武勇。その名は、後藤又兵衛(ごとう またべえ)、本名は基次(もとつぐ)。彼の名を聞けば、多くの人が勇猛果敢な忠臣の姿を思い浮かべるかもしれません。しかし、その生涯は栄光だけに彩られたものではありませんでした。輝かしい武功を立てながらも、主君と対立し、破格の禄を捨てて出奔。十年に及ぶ不遇の浪人生活の末、最後の死に場所を求めて大坂城へと入城します。彼の生き様は、まさに「反骨」という言葉そのものでした。なぜ彼は栄光を捨ててまで己の道を貫いたのか。その生涯を象-徴する家紋「黒餅」に込められた意地と、大坂の陣に散った猛将の真実に迫ります。
黒田家の懐刀、又兵衛その人と武勇
播磨での出自と二人の「黒田」
後藤又兵衛は1560年、播磨国姫路(現在の兵庫県姫路市)に生まれました。父の代から、当時姫路城主であった黒田家に仕えており、又兵衛もまた幼い頃から黒田官兵衛(後の如水)とその子・長政に仕えることになります。早くからその非凡な武才を見出され、特に官兵衛からは我が子同然のように目をかけられたと伝えられています。稀代の智将として知られる官兵衛の薫陶を受け、又兵衛は単なる猪武者ではない、戦況を的確に読む戦術眼と、何よりも黒田家のために身を挺する忠義心を育んでいきました。
「日本無双の槍」―朝鮮出兵での鬼神の如き活躍
彼の武名が天下に轟いたのは、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)でのことでした。数々の戦場で先鋒を務め、その槍働きは敵味方から恐れられます。特に1593年の第二次晋州城攻防戦では、圧倒的な数の明・朝鮮連合軍を相手に、黒田軍は絶体絶命の危機に陥ります。その中で又兵衛は、獅子奮迅の働きで敵兵を次々と薙ぎ倒し、血路を開きました。この時の凄まじい活躍ぶりは、敵であった明の将兵にも強い印象を残し、彼の武勇は国境を越えて知れ渡ることとなったのです。黒田家における彼の存在は、もはや単なる一武将ではなく、軍の勝敗を左右するほどの絶対的な「槍」でした。
関ヶ原の戦いと大隈城での絶頂期
1600年の関ヶ原の戦いでは、主君・長政が徳川家康方として主力を率いて東上したため、又兵衛は九州に残り、父・官兵衛(如水)の指揮下で西軍方の諸城を攻略する役目を担います。この九州平定戦において、彼の武功は頂点に達しました。特に豊後国の大隈城攻めでは、難攻不落とされた城を見事な采配で陥落させ、その功績を認められます。戦後、黒田家が筑前国に52万石という大領を与えられると、又兵衛にもその功績として大隈城主、知行1万6千石が与えられました。これは、黒田家の家臣としては破格の待遇であり、彼が名実ともに大名格の重臣として、その栄光の絶頂にあったことを示しています。
栄光からの転落―主君・長政との深い溝
なぜ又兵衛は黒田家を去ったのか
輝かしいキャリアを築き、誰もが羨む地位にあった又兵衛。しかし、その栄光は長くは続きませんでした。彼は突如として、その全てを捨てて黒田家を出奔するという、衝撃的な決断を下します。一体、彼と主君・黒田長政の間に何があったのでしょうか。その理由は、一つではなく、複数の要因が複雑に絡み合った結果でした。
決定的な要因―主君・黒田長政との性格の不一致
出奔の最大の原因は、主君・黒田長政との深刻な確執であったとされています。又兵衛は、自らの武功に絶対的な自信を持ち、それを隠そうとしない剛直でプライドの高い性格でした。時にその言動は、傲岸不遜と受け取られることもあったでしょう。一方の長政は、父・官兵衛があまりに偉大すぎたためか、常に父へのコンプレックスを抱え、家臣が自分以上の名声を得ることを極度に嫌う、猜疑心の強い一面があったと言われます。自分の功績を素直に認めず、むしろ過小評価しようとする長政に対し、又兵衛の不満は募っていきました。実力でのし上がってきた又兵衛にとって、主君の嫉妬心は、武士としての誇りを根底から揺るがす耐え難い屈辱だったのです。
カリスマ・黒田官兵衛(如水)の死という亀裂
この二人の危険な関係において、唯一の緩衝材となっていたのが、偉大な先代・黒田官兵衛(如水)でした。官兵衛は又兵衛の才能を高く評価し、息子・長政の短所もよく理解していました。彼が存命中は、両者の間に決定的な亀裂が生じることはありませんでした。しかし、1604年に官兵衛がこの世を去ると、その箍は外れてしまいます。偉大な父という重石が取れたことで、長政の猜疑心はますます強くなり、父が寵愛した又兵衛の存在は、長政にとって目障りなものへと変わっていきました。又兵衛にとっても、自らを正当に評価してくれた唯一の理解者を失ったことは、黒田家への忠誠心を揺るがす大きな出来事でした。
執拗な「奉公構」と十年に及ぶ浪人生活
ついに黒田家を出奔した又兵衛に対し、長政は「奉公構(ほうこうかまい)」という、極めて厳しい措置を取ります。これは、出奔した家臣が他の大名家に再仕官することを、公式に妨害する制度です。長政は全国の諸大名に対し「後藤又兵衛を召し抱えた家とは、今後一切の縁を持つことはない」という旨の書状を送りつけました。又兵衛の武名は天下に知れ渡っており、福島正則、池田輝政、前田利長といった多くの有力大名が彼を召し抱えようとしました。しかし、52万石の大大名である黒田長政との関係悪化を恐れ、誰も彼を正式に雇うことはできませんでした。これにより、又兵衛は10年近くにも及ぶ、長く苦しい浪人生活を余儀なくされたのです。長政の執拗な妨害は、彼がいかに又兵衛の才能を恐れ、そして憎んでいたかの裏返しでもありました。
多くを語らぬ「黒餅」紋の矜持
「黒餅」の由来と武骨な意匠
後藤又兵衛が用いた家紋は「黒餅(こくもち)」、または彼のルーツである藤原氏を示す「藤の丸に黒餅」として知られています。その意匠は、円の中に黒く塗りつぶされた餅が一つ描かれているだけという、非常にシンプルで飾り気のないものです。この家紋の正確な由来は定かではありませんが、一説には先祖が神前に黒い餅を供えた故事によるとも言われています。
飾らぬ意匠に込めた反骨の精神
この華美を一切排した武骨な家紋は、後藤又兵衛という人物そのものを象徴しているかのようです。彼は、派手な装飾や家柄の権威ではなく、ただ己の槍働きという「実」のみで、自らの価値を証明しようとした武将でした。黒田家を出奔し、浪人となった後も、彼はこの「黒餅」の紋を使い続けました。それは、もはや黒田家の家臣ではなく、「後藤又兵衛」という一個の独立した武将であるという、彼の強烈な自負と矜持の表明でした。多くを語らず、ただそこにある黒い円。それは、どんな権力にも媚びず、己の生き方を曲げないという、彼の内に秘めた反骨の精神そのものだったのです。
死に場所を求めて―大坂城、最後の賭け
豊臣家の招きと浪人たちの最後の夢
1614年、徳川家康と豊臣秀頼の対立が決定的なものとなり、世に言う「大坂の陣」が勃発します。豊臣方は、徳川の強大な軍事力に対抗するため、全国の浪人たちに呼びかけ、高額な支度金で彼らを雇い入れました。この報は、長く不遇の時を過ごしていた後藤又兵衛のもとにも届きます。もはや彼に、豊臣家への旧恩や忠義心はなかったかもしれません。しかし、この戦は、自らの武名を天下に示し、武士として輝かしい最期を飾るための、またとない「死に場所」でした。又兵衛は、己の全てを賭けるべく、大坂城へと向かいます。
大坂五人衆、その中心としての重責
大坂城には、又兵衛と同じように、それぞれの事情を抱えた歴戦の猛者たちが集結していました。中でも、真田信繁(幸村)、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登、そして後藤又兵衛の五人は「大坂五人衆」と呼ばれ、浪人衆を束ねる中心的な存在となります。特に又兵衛は、その豊富な実戦経験と戦術眼から、軍議において常に主導的な役割を果たしました。彼の存在は、寄せ集めに過ぎなかった豊臣軍を、精強な徳川軍と渡り合える戦闘集団へと変貌させるための、不可欠な柱でした。
夏の陣、道明寺の戦い―猛将、最後の奮戦
大坂冬の陣での一時的な和議が破られ、1615年、夏の陣が始まります。豊臣方は、徳川家康の本陣を急襲するという乾坤一擲の作戦を立て、又兵衛はその先鋒として、道明寺(現在の大阪府藤井寺市)方面で徳川軍主力を食い止めるという重要な役割を担いました。しかし、決戦の日の早朝、深い霧が発生し、後続の部隊の進軍が大幅に遅れるという不運に見舞われます。又兵衛の部隊わずか2800は、小松山という小高い丘で、伊達政宗や水野勝成らが率いる数万の徳川軍と、孤立して対峙することになってしまいました。
小松山に散った反骨の魂
衆寡敵せず。もはや勝敗は明らかでした。しかし、又兵衛は微塵も臆することなく、兵たちにこう言い放ったと伝えられています。「この場所こそ、我が死に場所と定めた。名を惜しむ者は、ここから去れ」。彼は、残った兵たちと共に、徳川の大軍に幾度となく突撃を繰り返します。その戦いぶりは鬼神の如く、伊達勢を何度も後退させましたが、多勢に無勢、次第に兵は討ち減らされ、又兵衛自身も全身に銃弾を浴びて満身創痍となります。もはやこれまでと悟った彼は、腹心の者に「我が首を敵に渡すな」と最後の言葉を遺し、壮絶な最期を遂げました。享年56。その死は、敵将である伊達政宗をして「真の武士であった」と言わしめるほど、見事なものでした。
なぜ後藤又兵衛は人を惹きつけるのか
後藤又兵衛の生涯は、組織との軋轢、上司との対立、そして不遇な扱いを受けながらも、決して己の誇りを失わず、自らの信じる道を歩み抜いた「反骨」の物語です。彼は、安易に組織に迎合することで得られる安泰よりも、たとえ茨の道であっても、武士としての「意地」を貫くことを選びました。その不器用で、あまりにも人間らしい生き様は、現代を生きる私たちにとっても、多くの示唆を与えてくれます。自分の価値を信じ、権力に屈せず、最後まで己の矜持を貫き通した猛将。彼が掲げ続けた飾り気のない「黒餅」の紋は、その誇り高い魂の象-徴として、これからも私たちの心を強く打ち続けることでしょう。
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