戦国時代の有名な戦・合戦一覧|年代順で学ぶ戦国武将の戦いの歴史

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戦国時代(1467年〜1615年)は、日本史上でも稀に見る群雄割拠の時代でした。室町幕府の権威が失墜し、下剋上の風潮が広がる中、各地の武将たちは天下統一という野望を抱き、血みどろの争いを繰り広げました。本記事では、この激動の時代を彩った主要な合戦を「年代順」に、その背景、関係武将、そして歴史的意義と共に詳しく紹介します。


応仁の乱と戦国時代の幕開け(1467年〜)

応仁の乱(1467年)

  • 時期: 1467年〜1477年(約11年間)
  • 場所: 京都
  • 主要関係者:
    • 東軍: 細川勝元、畠山政長、斯波義廉など(室町幕府管領家)
    • 西軍: 山名宗全(持豊)、畠山義就、斯波義敏など(守護大名)
  • 背景: 室町幕府8代将軍・足利義政の後継者問題と、細川勝元と山名宗全という二大有力守護大名間の対立が表面化したことで、両派の私闘に幕府内の複雑な権力闘争が絡み合い、全国の守護大名を巻き込む大乱へと発展しました。
  • 経過: 京都市街を主戦場とし、両軍合わせて数十万の兵が投入されました。長期にわたる市街戦により、京都は灰燼に帰し、文化財の多くが失われました。戦いの直接的な決着はつかないまま、主要人物の死去により自然消滅的に終結しました。
  • 結果と歴史的意義: 応仁の乱は、室町幕府の権威を決定的に失墜させました。これにより、各地の守護大名や地頭、国人衆が中央の統制を受けなくなり、領国支配を強化し、互いに争う「下剋上」の時代へと突入。まさに「戦国時代」の幕開けを告げる象徴的な戦いとなりました。
    詳しくは応仁の乱の詳細解説をご覧ください。

戦国初期の戦い(〜1550年代)

上田原の戦い(1548年)

  • 時期: 1548年(天文17年)2月14日
  • 場所: 信濃国小県郡上田原(現在の長野県上田市)
  • 主要関係者:
    • 武田軍: 武田信玄(当時は晴信)
    • 村上軍: 村上義清
  • 背景: 甲斐の武田信玄が信濃国への侵攻を進める中、信濃北部の有力国人である村上義清がこれに抵抗。信玄は村上義清の居城・葛尾城(かつらおじょう)を攻略するべく出兵しました。
  • 経過: 雪が残る中、武田軍は上田原で村上軍と激突。村上義清は地の利を活かした巧みな戦術と、強力な騎馬隊で武田軍を迎え撃ちました。武田軍は総大将・武田晴信(信玄)自身も負傷するほどの大苦戦を強いられ、重臣の板垣信方や甘利虎泰など多くの将を失う大敗を喫しました。
  • 結果と歴史的意義: 武田信玄にとって初めての大敗であり、その後の戦略に大きな影響を与えました。この敗戦から信玄は、軍事力の強化だけでなく、外交戦略の重要性も再認識したとされます。また、村上義清の名を天下に知らしめた戦いでもありました。
    詳しくは上田原の戦いの詳細解説をご覧ください。

川中島の戦い(第1次 1553年)

  • 時期: 1553年(天文22年)
  • 場所: 信濃国川中島(現在の長野県長野市)
  • 主要関係者:
    • 武田軍: 武田信玄
    • 上杉軍: 上杉謙信(当時は長尾景虎)
  • 背景: 上田原の戦いで武田信玄が敗れた後、信濃の村上義清は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に援軍を求め、越後へ亡命しました。これにより、信濃支配を目指す武田信玄と、義を重んじ信濃の国人衆を保護する長尾景虎の利害が衝突し、両雄の直接対決が避けられない状況となりました。
  • 経過: 初めて両軍が川中島で対峙。しかし、この第一次合戦では大規模な戦闘は行われず、主に小競り合いや睨み合いが続きました。両者ともに相手の出方を探り、本格的な衝突を避ける形となりました。
  • 結果と歴史的意義: 戦国史上名高い「川中島の戦い」の幕開けを告げる合戦であり、武田信玄と上杉謙信という稀代の好敵手たちの因縁の始まりとなりました。この後、約12年間にわたって川中島を巡る両者の攻防が繰り広げられることになります。
    詳しくは川中島の戦いの詳細解説をご覧ください。

織田信長の台頭(1550〜1570年代)

桶狭間の戦い(1560年)

  • 時期: 1560年(永禄3年)5月19日
  • 場所: 尾張国桶狭間(現在の愛知県豊明市・名古屋市緑区)
  • 主要関係者:
    • 織田軍: 織田信長
    • 今川軍: 今川義元
  • 背景: 東海道の覇者として駿河・遠江・三河を支配していた今川義元は、上洛を目指し、約2万5千ともいわれる大軍を率いて尾張国へ侵攻。対する尾張の織田信長は、わずか2千〜3千ともいわれる寡兵でした。
  • 経過: 信長は、今川軍の本隊が桶狭間山付近で休憩している隙を突く奇襲戦法を決行。豪雨の中、今川軍に気づかれることなく接近し、混乱状態の今川本陣を急襲しました。この奇襲により、今川義元はまさかの討死を遂げ、今川軍は総崩れとなりました。
  • 結果と歴史的意義: 織田信長がわずかな兵力で大軍を破った歴史的な勝利であり、「奇跡の勝利」と称されます。この戦いを境に今川氏の勢力は急速に衰退し、信長は尾張統一を確固たるものにしました。また、信長の名を全国に轟かせ、その後の天下統一への第一歩となりました。
    詳しくは桶狭間の戦いの詳細解説をご覧ください。

川中島の戦い(第4次 1561年)

  • 時期: 1561年(永禄4年)9月10日
  • 場所: 信濃国川中島(現在の長野県長野市)
  • 主要関係者:
    • 武田軍: 武田信玄
    • 上杉軍: 上杉謙信
  • 背景: 第一次から続く両者の信濃支配を巡る攻防が続く中、上杉謙信が武田信玄の本拠地・甲斐を脅かすべく、妻女山に布陣。これに対し、信玄も海津城を築いて対峙し、両者睨み合いの状況が続きました。
  • 経過: 武田軍は「啄木鳥(きつつき)戦法」と呼ばれる陽動と挟撃の策を立て、上杉軍を妻女山からおびき出し、平野部で殲滅しようとしました。しかし、謙信はこの策を見破り、武田軍の別働隊が動く前に主力を率いて山を下り、信玄の本隊に奇襲を仕掛けました。このため、両軍は乱戦となり、一騎打ちと伝わる信玄と謙信の直接対決など、歴史的な激戦が繰り広げられました。
  • 結果と歴史的意義: 両軍ともに甚大な被害を出しました。武田軍は信玄の弟・武田信繁や山本勘助らを失い、上杉軍も重臣の宇佐美定行などを失いました。この戦いは決着がつかず、両者ともに大きな痛手を負いましたが、信玄は信濃の支配を維持し、謙信は武田の信濃進出を食い止めることに成功しました。戦国史上最も激しい戦いの一つとして語り継がれ、両雄の軍事的天才を象徴する合戦となりました。
    詳しくは川中島の戦いの詳細解説をご覧ください。

姉川の戦い(1570年)

      • 時期: 1570年(元亀元年)6月28日
      • 場所: 近江国浅井郡姉川(現在の滋賀県長浜市)
      • 主要関係者:
        • 織田・徳川連合軍: 織田信長、徳川家康
        • 浅井・朝倉連合軍: 浅井長政、朝倉義景
      • 背景: 織田信長は、越前国の朝倉氏を攻めるため、長年同盟を結んでいた浅井氏の領地を通って進軍しました。しかし、浅井長政は朝倉氏と古くからの盟約があり、信長を裏切って朝倉氏に味方。これにより、信長は挟み撃ちの危機に陥り、撤退を余儀なくされました(金ヶ崎の退き口)。信長は浅井氏と朝倉氏を討つべく、徳川家康と共に姉川で浅井・朝倉連合軍と対峙しました。
      • 経過: 織田軍は浅井軍と、徳川軍は朝倉軍と激突しました。浅井軍は地形を巧みに利用し、織田軍を一時的に追い詰めましたが、信長の采配と、徳川家康の奮戦により戦局が転換。徳川軍が朝倉軍を圧倒した後、浅井軍を挟撃し、浅井・朝倉連合軍は敗走しました。
      • 結果と歴史的意義: 織田信長と徳川家康の同盟が、初めて大規模な合戦でその力を発揮した戦いでした。この勝利により、信長は浅井・朝倉氏に対する優位を確立し、後の滅亡へと追い込む足がかりとしました。また、信長は近江の支配を強化し、天下統一への道をさらに進めることになります。

    詳しくは姉川の戦いの詳細解説をご覧ください。

長篠の戦い(1575年)

  • 時期: 1575年(天正3年)5月21日
  • 場所: 三河国設楽郡長篠(現在の愛知県新城市)
  • 主要関係者:
    • 織田・徳川連合軍: 織田信長、徳川家康
    • 武田軍: 武田勝頼
  • 背景: 織田信長による武田氏包囲網が形成される中、武田勝頼は三河国の徳川領にある長篠城を攻撃しました。徳川家康は信長に援軍を要請。織田・徳川連合軍約3万8千に対し、武田軍は1万5千という劣勢でした。
  • 経過: 信長は、設楽原(したらがはら)に馬防柵を築き、そこに約3千挺ともいわれる鉄砲隊を配置しました。武田勝頼は、武田騎馬隊の突撃力に自信を持ち、この鉄砲隊を突破しようとしましたが、三段撃ち(交代で射撃することで連続射撃を可能にする戦術)ともいわれる織田鉄砲隊の集中砲火を浴び、武田騎馬隊は壊滅的な打撃を受けました。
  • 結果と歴史的意義: 織田・徳川連合軍の圧勝に終わりました。特に、鉄砲の集団運用が戦局を大きく左右したことで、戦国の様相が変化した象徴的な戦いとして知られています。武田氏は多くの重臣を失い、その勢力は急速に衰退。この敗戦が、武田氏滅亡への決定的な転機となりました。信長の革新的な戦術が、その後の日本の軍事史に大きな影響を与えました。
    詳しくは長篠の戦いの詳細解説をご覧ください。

豊臣秀吉の全国統一戦(1580〜1590年代)

山崎の戦い(1582年)

  • 時期: 1582年(天正10年)6月13日
  • 場所: 山城国山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)
  • 主要関係者:
    • 羽柴軍: 羽柴秀吉
    • 明智軍: 明智光秀
  • 背景: 織田信長が天下統一を目前にした1582年6月2日、家臣の明智光秀によって本能寺で討たれるという「本能寺の変」が勃発しました。この報を受けた羽柴秀吉(当時、備中高松城水攻め中)は、すぐさま毛利氏との講和を成立させ、中国大返しと呼ばれる驚異的な速度で京都へ急行。信長の仇を討つべく、光秀を追撃しました。
  • 経過: 光秀は信長の旧臣たちから孤立し、味方を集めることができませんでした。山崎において、秀吉率いる大軍と明智軍は激突。光秀は地の利を活かして迎え撃ちましたが、秀吉軍の圧倒的な兵力と士気の前に敗走。光秀は落ち武者狩りによって殺害されたと伝わります。
  • 結果と歴史的意義: 秀吉が「天下人」への道を駆け上がる決定打となった戦いです。信長の死後、最も早く光秀を討ち取ることで、秀吉は織田家における主導権を握り、織田信長の後継者としての地位を確立しました。この戦いの勝利により、秀吉は「信長の後継者」という大義名分を得て、全国統一へ向けて大きく動き出すことになります。
    詳しくは山崎の戦いの詳細解説をご覧ください。

小牧・長久手の戦い(1584年)

  • 時期: 1584年(天正12年)
  • 場所: 尾張国小牧・長久手(現在の愛知県小牧市・長久手市)
  • 主要関係者:
    • 徳川・織田(信雄)連合軍: 徳川家康、織田信雄(信長の次男)
    • 羽柴軍: 羽柴秀吉
  • 背景: 本能寺の変後、清須会議を経て織田家の実権を握った秀吉に対し、信長の次男・織田信雄と、信雄と結んだ徳川家康が反発。両者は、次代の覇権を巡る直接対決に踏み切りました。
  • 経過: 小牧山城に陣を張った家康に対し、秀吉は大軍で攻撃を仕掛けますが、家康は地の利を活かした巧みな防衛戦を展開。また、秀吉が家康の本拠地を攻めるべく別働隊を派遣した際には、家康はこれを察知し、長久手でこれを迎撃し、池田恒興など秀吉方の有力武将を討ち取る大勝を収めました。
  • 結果と歴史的意義: 大規模な正面衝突では決着がつかず、局地戦では家康が勝利を収めました。最終的に、秀吉は織田信雄と和睦し、その後、徳川家康とも講和を結びました。この戦いは、秀吉が武力だけでは家康を屈服させることができないことを示し、家康の軍事的手腕を天下に知らしめました。この後、秀吉は家康を臣従させるため、妹を嫁がせるなどの懐柔策をとることになります。
    詳しくは小牧・長久手の戦いの詳細解説をご覧ください。

小田原征伐(1590年)

  • 時期: 1590年(天正18年)
  • 場所: 相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)ほか
  • 主要関係者:
    • 豊臣軍: 豊臣秀吉
    • 北条軍: 北条氏政、北条氏直
  • 背景: 豊臣秀吉は、関白として全国の諸大名に服従を求め、次々と従属させていきました。しかし、関東の有力大名である北条氏政・氏直父子は、秀吉の上洛命令に応じず、小田原に籠城して抵抗の姿勢を見せました。秀吉は、北条氏を最後の障害とみなし、全国の諸大名に総動員を命じ、20万ともいわれる大軍で小田原城を包囲しました。
  • 経過: 秀吉は小田原城を完璧に包囲し、長期的な兵糧攻めと威圧を行いました。一夜城で有名な石垣山一夜城の築城もこの時です。また、陸上からの包囲だけでなく、水軍も動員して海からの補給路も断ち切りました。圧倒的な兵力差と、秀吉の用意周到な包囲網の前に、北条軍は戦意を喪失し、約3ヶ月の籠城の後、ついに開城降伏しました。
  • 結果と歴史的意義: 北条氏の滅亡により、豊臣秀吉による天下統一が完成しました。これにより、応仁の乱以来、約130年続いた戦国時代は一旦終結を迎えました。秀吉は北条氏の旧領を没収し、奥羽の大名にも服従を命じるなど、全国支配を盤石なものとしました。この後、秀吉は新たな野望として、国外への進出を企てることになります。
    詳しくは小田原征伐の詳細解説をご覧ください。

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)(1592〜1598年)

文禄の役(1592年)

  • 時期: 1592年(文禄元年)
  • 場所: 朝鮮半島、日本
  • 主要関係者:
    • 日本軍: 豊臣秀吉、小西行長、加藤清正、徳川家康など
    • 朝鮮・明連合軍: 李舜臣(朝鮮水軍)、朝鮮国王宣祖、明軍
  • 背景: 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、日本国内の安定と、武士たちのエネルギーを国外へ向けるため、「唐(中国)入り」を目標とし、その手始めとして朝鮮半島への出兵を計画しました。朝鮮に服属を求めましたが拒否されたため、大軍を派遣しました。
  • 経過: 日本軍は釜山に上陸後、緒戦で快進撃を続け、破竹の勢いで漢城(ソウル)を占領。平壌(ピョンヤン)まで到達しました。しかし、朝鮮水軍を率いる李舜臣の活躍により制海権を奪われ、また明の援軍が到着したことで戦況は膠着し、日本軍は補給に苦しむようになりました。
  • 結果と歴史的意義: 日本軍は当初の勢いを失い、戦線は膠着状態に陥りました。明との間で和議交渉が行われましたが、条件が折り合わず、一時的に停戦状態となりました。この役は、朝鮮半島に甚大な被害をもたらし、日本にとっても多くの兵力と物資を消費することになりました。

慶長の役(1597年)

  • 時期: 1597年(慶長2年)
  • 場所: 朝鮮半島、日本
  • 主要関係者:
    • 日本軍: 豊臣秀吉、小西行長、加藤清正、徳川家康など
    • 朝鮮・明連合軍: 李舜臣、朝鮮国王宣祖、明軍
  • 背景: 文禄の役の和議交渉が不調に終わり、豊臣秀吉は再び朝鮮半島への出兵を命じました。今回は、日本軍は再度の侵攻準備を整え、より大規模な軍勢を派遣しました。
  • 経過: 日本軍は再び朝鮮半島南部を中心に進撃しましたが、明・朝鮮連合軍の組織的な抵抗と、李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍により、前回のような快進撃はできませんでした。特に、鳴梁海戦(めいりょうかいせん)では、李舜臣が少数の船で日本水軍の大艦隊を打ち破るという奇跡的な勝利を収めました。戦況が泥沼化する中、1598年8月、豊臣秀吉が病死。これを受けて、日本軍は全軍撤退を開始しました。
  • 結果と歴史的意義: 日本軍は最終的に朝鮮半島から撤退し、この約7年間にわたる朝鮮出兵は失敗に終わりました。日本にとっては、多大な国力を消耗し、多くの兵士を失う結果となりました。また、朝鮮半島には深い傷跡を残し、その後の日朝関係にも大きな影響を与えました。この遠征の失敗は、豊臣政権の屋台骨を揺るがし、後の関ヶ原の戦いへと繋がる遠因の一つとなりました。
    詳しくは朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の詳細解説をご覧ください。

関ヶ原と戦国時代の終焉(1600〜1615年)

関ヶ原の戦い(1600年)

  • 時期: 1600年(慶長5年)9月15日(旧暦)
  • 場所: 美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)
  • 主要関係者:
    • 東軍: 徳川家康、福島正則、黒田長政、細川忠興など
    • 西軍: 石田三成、毛利輝元(名目上の総大将)、小早川秀秋、島津義弘など
  • 背景: 豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部では、五大老筆頭の徳川家康が勢力を拡大し、一方、豊臣恩顧の文治派(石田三成ら)はこれに反発。家康が上杉景勝の謀反を討伐するため会津へ出兵した隙に、三成は諸大名に檄を飛ばし、家康打倒の兵を挙げました。これにより、日本全国を二分する大戦となりました。
  • 経過: 東軍・徳川家康と西軍・石田三成の主力部隊が関ヶ原で激突。当初は西軍が優勢でしたが、徳川家康の調略により、西軍に属していた小早川秀秋が東軍に寝返り、西軍の背後を攻撃。これにより西軍は総崩れとなり、壊滅的な敗北を喫しました。
  • 結果と歴史的意義: 東軍の徳川家康が圧倒的な勝利を収め、日本の覇権を確立しました。この戦いの勝利により、家康は豊臣政権の権力を完全に奪取し、その後の江戸幕府の基礎を築きました。関ヶ原の戦いは、天下分け目の戦いとして、日本史の大きな転換点となりました。詳しくは関ヶ原の戦いの詳細解説をご覧ください。

大坂冬の陣・夏の陣(1614年〜1615年)

  • 時期:
    • 大坂冬の陣: 1614年(慶長19年)11月〜12月
    • 大坂夏の陣: 1615年(慶長20年)5月
  • 場所: 摂津国大坂(現在の大阪府大阪市)
  • 主要関係者:
    • 徳川軍: 徳川家康、徳川秀忠(2代将軍)
    • 豊臣軍: 豊臣秀頼、淀殿、真田幸村、後藤又兵衛など
  • 背景: 関ヶ原の戦い後、徳川家康は江戸幕府を開き、実権を握りました。しかし、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼は、大坂城に依然として強大な財力と兵力を有し、徳川政権にとって脅威となっていました。家康は、豊臣家を完全に滅ぼすべく、様々な口実を設けて豊臣家を挑発し、最終的に戦闘へと持ち込みました。特に「方広寺鐘銘事件」が直接の開戦理由となりました。
  • 経過:
    • 冬の陣: 徳川家康は20万を超える大軍で大坂城を包囲。豊臣軍は真田幸村らの活躍により善戦しましたが、圧倒的な兵力差と、大坂城の弱点である南側に集中砲火を浴びせたことで、豊臣方は和睦に応じました。この和睦の際に、大坂城の堀が埋め立てられ、城は丸裸にされました。
    • 夏の陣: 埋め立てられた堀により、大坂城は防御力を失いました。豊臣方は再び兵を挙げ、徳川軍と激突。真田幸村の最後の突撃など、壮絶な戦いが繰り広げられましたが、最終的には徳川軍の圧倒的な物量と戦術の前に豊臣軍は敗れ、大坂城は落城。豊臣秀頼と淀殿は自害し、豊臣家は滅亡しました。
  • 結果と歴史的意義: 徳川家康は豊臣家を完全に滅ぼし、日本の支配体制を盤石なものとしました。これにより、室町時代から続く「戦国時代」は完全に終焉を迎え、約260年間続く江戸幕府による平和な時代が確立されました。
    詳しくは大坂冬の陣・夏の陣の詳細解説をご覧ください。

7. よくある質問(FAQ)

Q1:戦国時代はいつからいつまで?
A:一般的には、1467年の「応仁の乱」から、1615年の「大坂夏の陣」までを指します。応仁の乱で室町幕府の権威が失墜し、各地で群雄が割拠する時代が始まり、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川家による天下統一が確立されたことで、戦乱の時代が完全に終わったとされています。

Q2:戦国時代で一番有名な戦は?
A:歴史愛好家や一般の方々にもっとも広く知られているのは、1600年の「関ヶ原の戦い」でしょう。日本の歴史を二分する「天下分け目の戦い」として、そのスケールの大きさや、その後の日本の運命を決定づけた意義から、最も有名と言えます。

Q3:どの武将が一番多くの戦に勝った?
A:織田信長豊臣秀吉は非常に高い勝率を誇りました。特に豊臣秀吉は、多くの合戦において直接的な敗北を喫したことがほとんどなく、「戦無敗」とまで言われることがあります。これは、信長から受け継いだ革新的な軍事力に加え、巧みな外交手腕や調略を駆使して、戦わずして勝利を得ることも多かったためです。徳川家康も多くの苦難を乗り越えて天下を統一しましたが、三方ヶ原の戦いなどで大敗を喫した経験もあります。


8. まとめ

戦国時代は、武将たちの野望と策略、そして血みどろの合戦によって紡がれた激動の時代でした。応仁の乱に始まり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちが登場し、それぞれの時代を彩る壮大な合戦が繰り広げられました。

これらの合戦一つ一つには、単なる戦闘の記録を超えた、人間ドラマ、戦略の妙、そしてその後の日本を形作る大きな歴史的意義が込められています。歴史好きの方々はもちろん、戦国時代を深く学びたい方々、この詳細な合戦一覧が有益な参考資料となることを願っています。

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