塚原卜伝の逸話です。

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剣豪の紹介

塚原卜伝は常陸の国(現在の茨城県)の鹿島で生まれた剣豪です。父の名は吉川左京覚賢(よしかわさきょうあきたか)で、卜部氏でありました。この卜部氏というのは、鹿島神宮に使えていた神官でした。そしてこの卜部氏は、古くから鹿島の土地に伝わる『鹿島の太刀』という剣法を受け継いでいる家柄だったのです。
そしてさらには、鹿島城の家老も務めていた上に、正等寺という寺で座主家(ざすけ・僧侶等を束ねていた家)としても繋がりがありました。
卜伝は吉川家の次男として生まれ、幼名を朝孝といいました。六歳ごろに塚原土佐守安幹(つかはらとさのかみやすもと)のところへと養子に出されます。一六歳になると、朝孝は初めての剣術修行の旅に出ました。朝孝は元服を済ませた後に、名を『塚原新右衛門高幹(つかはらしんうえもんたかもと)』と改めます。
その後十五年に渡って、高幹は沢山の勝負を経験して実力を付けていきます。その修行の際には、真剣で試合をしたのが十九回。三十七回戦いの場で戦っています。一度としてしくじる事もなく、傷ができたのも矢で負った六か所のみ。一対一で戦い二百十二人を負かしたと言われています。
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様々な地域を回っての修行は京都近辺で行っており、戦場において人の死について触れることが多かったので、心的に辛くなり修行を打ち止めにして、故郷である鹿島に帰ったのでした。
高幹はあまりにも荒んでしまいました。父親たちは心配して鹿島きっての剣の使い手であり、鹿島城の家老も担っていた松本政信に高幹を託す事にしたのです。
高幹は鹿島神宮に千日間参籠(祈願のために籠ること)をすることになりました。この参籠によって、高幹は気持ちを落ち着け、自身の剣とも、鍛錬をしながら向き合う事ができたのです。その後に『気持ちを改めて新たに再出発をせよ』という鹿島の大神からのお告げを受けた高幹は、自分の号を“卜部の剣を伝える”という意味で『卜伝』としたのでした。
その後は西日本から九州の辺りまでを剣の修行で回ったと言います。この間に実の父が亡くなりますが、その事をきっかけに十年ほどの修行を切り上げて鹿島に戻りました。
それからは塚原城の城主となります。妙という女性と結婚して、城を守り弟子たちを育てることに尽力しました。
その十年後に妻・妙が亡くなると、卜伝は養子である彦四郎幹重(みきしげ)に塚原城・城主という立場を譲り、七十歳近くの年齢にして、再び修行の旅に出ます。
“国に平和を与えてくれる剣”と言われる、自らが作りあげた『一の太刀』を広めようと、当時の将軍足利義輝などに剣の手ほどきをしています。その後、伊勢国司であった北畠具教に二年ほど教え、『一の太刀』を与えました。卜伝はまた旅を続けますが、美濃の国や信濃の国を通り、甲斐の国に辿りつきます。甲斐では、剣を武田信玄に見せ、信玄らにも指導をしたのでした。山本勘助らも指導を受けたといいます。
甲斐の地を後にした卜伝は、下野の国(栃木)の唐沢城・城主の下で子どもらに剣術を教えました。その中でも、次男や三男は後に武芸者として知られました。卜伝は常陸の鹿島に帰りますが、八十三歳で亡くなりました。
様々な地域を旅しながら剣の腕を磨き、人にも伝えていった卜伝。その剣は人々の和を願ってのものでした。そして後に『剣聖』と言われるようになったのです。

塚原卜伝の逸話です。
卜伝の弟子の一人が、馬の後ろを歩いていた時、急に馬が跳ねて蹴られそうになりました。弟子はとっさに身をかわして避けると民衆は、卜伝の弟子を褒め称えます。
しかし卜伝の評価は違っていました。馬ははねるものということを忘れ、うかつにもそのそばを通った弟子が悪い。はじめから馬を大きく避けて通ってこそ、わが弟子である。卜伝の重んずることは「戦わずして勝つ」ことです。無用のリスクは背負ないことが名人の条件であると考えていたようです。
卜伝には三人の養子がいました。家督を譲るために三人の息子の心がけを試します。鴨居の上に木枕を置き、襖を開けると木枕が落ちるような仕掛けをしました。
三男は落ちてきた木枕を真二つに切って、入ってきた。
次男は木枕が落ちてくるとさっと退き、刀の柄に手をかけ、落ちてきた物が木枕であることを確認して入ってきた。
長男・彦四郎は仕掛けを見破ると、木枕を取り除いて部屋に入ってきました。
これを見た卜伝は長男・彦四郎に家督を譲ることに決めたといいます。
いくら強いからといって、真剣勝負では何が起きるかわかりません。偶然でも負けることがあります。
卜伝の無敗の秘訣は先を見越して、しなくてもいい無益な戦いをしなかったからではないでしょうか?

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