戦国という時代、大名たちは互いに武力や知略を競い合い、生き残りをかけて戦いました。しかし、人の営みがどれほど激しくとも、時には、人間の想像を遥かに超える自然の力が、その全てを無に帰すことがあります。飛騨国の山深い地に、そのようなあまりにも悲劇的な運命を辿った戦国大名がいました。内ヶ島氏理。天正大地震によって、居城もろとも一夜にして土砂に埋もれ、歴史から姿を消した内ヶ島氏理の生涯は、戦国の無常さとは異なる、自然の猛威と、人間に潜む哀しみを私たちに深く感じさせます。
山国の雄、飛騨の奥地に根ざす
内ヶ島氏は、飛騨国の南部、現在の白川村周辺を拠点とした国人領主でした。飛騨国は、周囲を高い山々に囲まれた山国であり、交通の便が悪く、外部からの影響を受けにくい土地でした。そのため、飛騨国内には内ヶ島氏のような独立性の強い国人領主たちが割拠していました。内ヶ島氏理は、そのような飛騨の山奥に根ざした内ヶ島氏の当主として生まれました。
当時の飛騨国は、越前、越中、美濃といった周辺の有力大名たちの影響を受けていました。織田信長、上杉謙信、武田信玄、佐々成政、そして金森長近といった戦国大名たちの動きは、飛騨の国人領主たちにとっても無視できないものでした。内ヶ島氏理は、これらの強大な勢力の間で、内ヶ島家が生き残るための道を模索していました。武力では敵わない相手に対して、外交や、時には従属といった手段を用いながら、内ヶ島家の独立性、あるいは存続を図ったことでしょう。山深い飛騨にあっても、内ヶ島氏理は時代の大きな流れを感じ取っていたはずです。
天下人の時代、変わる飛騨情勢
織田信長が天下統一を進め、やがて豊臣秀吉の時代となると、飛騨国の情勢も大きく変化します。信長によって飛騨攻めが行われ、やがて金森長近が飛騨の領主となります。内ヶ島氏理は、これらの新しい権力者たちとどのように関わったのでしょうか。金森長近の支配のもと、内ヶ島氏はその影響力を維持しようとしたのかもしれません。激動の時代にあって、内ヶ島氏理は、自らの立場を守るために、必死に立ち回っていたはずです。
天正大地震、あまりにも突然の悲劇
天正13年(1585年)11月29日(旧暦)、日本の歴史に大きな影響を与えた、天正大地震が発生します。この地震は、飛騨を含む東海地方から畿内にかけて広い範囲に甚大な被害をもたらしました。その揺れは非常に激しく、大規模な山崩れや河川の氾濫を引き起こしました。
そして、この天正大地震によって、内ヶ島氏理と内ヶ島家は、あまりにも悲劇的な最期を迎えることとなります。内ヶ島氏理の居城である帰雲城が、地震に伴う大規模な山崩れによって、一夜にして土砂に埋もれてしまったのです。山が崩れ落ち、城を、そして城にいた全ての人々を飲み込みました。
城にいた内ヶ島氏理とその妻、子といった一族、そして多くの家臣や侍女たちが、帰雲城と共に土砂の下敷きとなり、命を落としました。戦国の世にあって、大名が滅亡する原因は、合戦での敗北や内紛、あるいは改易といったものでした。しかし、内ヶ島氏理は、武力によって敗れたのではなく、権力争いに巻き込まれたのでもなく、ただ、自然の猛威によって、あまりにも突然に、そして文字通り痕跡も残さずに歴史から消え去ったのです。それは、戦国大名としては極めて珍しい、そして、あまりにも悲劇的な最期でした。
山河慟哭、遺された哀しみ
内ヶ島氏理の生涯は、飛騨という山奥で、戦国の荒波を生き抜こうと奮闘しながらも、天正大地震という予測不能な自然の力によって、城もろとも滅亡した、あまりにも哀しい物語です。乱世を生き抜くための知恵や武勇も、自然の猛威の前には無力であることを、内ヶ島氏理の最期は私たちに突きつけます。
内ヶ島氏理が築き上げた帰雲城も、そこに暮らした人々も、一夜にして全てが土砂に埋もれてしまいました。歴史の記録はわずかしか残されておらず、内ヶ島氏理という人物や、内ヶ島家がどのような存在であったかを知る手がかりは限られています。しかし、山河が慟哭し、城が消えたという伝承は、この地で起こった悲劇の大きさを今に伝えています。
内ヶ島氏理という人物を想うとき、私たちは、激動の時代にあって、自らの力ではどうすることもできない、自然の猛威に翻弄された人々の哀しみに触れることができます。飛騨の山奥に咲き、そして一夜にして散った、内ヶ島氏理と内ヶ島家の夢。その悲劇的な滅亡は、私たちに、人間の営みが自然の力の前にはいかに無力であるか、そして、歴史の大きな流れの中に、このようにあまりにも突然に消え去ってしまった人々がいたことを静かに語りかけてくるのです。
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