室町時代の末期、約11年間にわたり京都を焦土と化し、その後の戦国時代の幕開けとなった応仁の乱。この未曽有の大乱を引き起こした夫婦として、しばしば足利義政と日野富子の名が挙げられます。政治に無関心で文化に傾倒した将軍と、権勢欲が強く「悪女」と評される正室。しかし、彼らの真実とは一体どのようなものだったのでしょうか。
政治から逃避した将軍・足利義政
室町幕府第8代将軍の足利義政は、祖父である6代将軍・足利義教の専制政治の反動ともいえるか、政治への関心が薄かったとされます。彼の時代、幕府の権威は既に陰りを見せ始め、有力守護大名による権力争いが表面化していました。義政はこれらの対立を効果的に調停する手腕に乏しく、むしろ東山文化に傾倒し、銀閣寺に代表されるような美の世界に心を寄せました。
飢饉や徳政一揆が頻発するなど社会情勢が不安定化する中にあっても、義政が政治の現実から目を背け、風流にふけった姿は、同時代の人々からも批判の的となりました。彼の政治への無関心や指導力不足が、幕府の弱体化を招き、応仁の乱という破局へと繋がった一因とされることは少なくありません。
「悪女」と呼ばれた妻・日野富子
足利義政の正室である日野富子は、公家の名門日野家の出身です。彼女は子宝に恵まれない期間が長く、義政が弟の義視を養子として後継者に定めた後に実子(後の9代将軍・足利義尚)を出産したことから、将軍の跡継ぎ争いに深く関わることになります。富子は実子である義尚を将軍に就けようと画策し、これが応仁の乱の一因となったとされます。
また、戦乱による幕府の財政難に対し、富子は京都の七口に関所を設けて通行料を徴収したり、高利貸しを行ったりして財源の確保に奔走しました。これらの経済活動が、後世の人々からは強欲な「守銭奴」として捉えられ、「悪女」というイメージを決定づける要因となりました。夫・義政が政治を顧みない中で、彼女が幕府の財政を支えようとした側面もあったにも関わらず、その積極的な行動や政治への介入は、当時の女性としては異例であったこともあり、強い批判に晒されたのです。
応仁の乱の複雑な原因と二人の影響
応仁の乱の原因は、決して足利義政と日野富子の個人的な問題だけではありません。将軍家の後継者争いに加え、有力守護大名である畠山氏や斯波氏における家督争いが複雑に絡み合い、さらに当時の二大有力者であった細川勝元と山名宗全の対立が、これらの火種に油を注ぐ形となりました。
義政の指導力不足はこれらの対立を収拾するどころか、かえって事態を悪化させました。そして、富子の実子擁立への動きは、既に存在していた対立構造の中に新たな、かつ決定的な亀裂を生じさせたと言えます。彼女の行動は、乱の勃発を直接的に引き起こしたというよりは、様々な要因が絡み合う中で、避けられなくなりつつあった戦乱を決定づけた引き金の一つであったと見るのが妥当でしょう。
「悪女」イメージの再考
日野富子が「悪女」と呼ばれた背景には、彼女の政治への積極的な関与や経済活動が、当時の女性像から大きく逸脱していたこと、そして応仁の乱という未曽有の災厄の原因を特定の個人に帰属させたいという後世の人々の心理があったと考えられます。特に、『応仁記』のような軍記物において、劇的な物語として描かれる中で、彼女の人物像が悪玉として強調された可能性は否定できません。
近年では、富子が行った経済活動は、破綻寸前であった幕府財政を立て直すための現実的な方策であったとする評価や、夫・義政の政治的無関心という状況下で、将軍家を、そして幕府を存続させるために彼女なりに最善を尽くした結果であったという見方もされています。彼女を単なる強欲な「悪女」と断じるのは、あまりにも一面的な捉え方と言えるでしょう。
足利義政と日野富子。一方は政治を軽んじた将軍、一方は「悪女」と称された妻。しかし、応仁の乱という巨大な動乱は、彼らの個人的な性質や行動だけでなく、室町幕府が抱える構造的な問題、そして複雑に絡み合った守護大名たちの思惑が複合的に作用して引き起こされたものです。彼らを単純な善玉・悪玉として捉えるのではなく、当時の時代背景の中で彼らが置かれた状況や、それぞれの立場で下した判断の多面性を理解することが、応仁の乱の真実に迫る上で重要な視点となります。
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