難攻不落の「牙」 ~岡城主、志賀親次の生涯~

戦国武将一覧

戦国時代、九州の地でも、豊後国(現在の大分県)を本拠とする大友氏、薩摩国の島津氏、肥前国の龍造寺氏といった大名たちが、互いに天下を争う激しい戦いを繰り広げていました。その大友氏に仕え、特に島津氏の猛攻から名城岡城(現在の竹田市)を守り抜き、「難攻不落」の伝説を築き上げた一人の武将がいます。志賀親次です。彼は、主家大友氏への揺るぎない忠誠心と、武勇、そして知略をもって、迫りくる危機に立ち向かいました。難攻不落の「牙」、志賀親次の生涯に深く分け入ってみたいと思います。

大友の郷、岡城主として

志賀家の出自は明らかではありませんが、志賀親次は大友氏に仕えた武士です。大友氏は、大友宗麟のもとで九州北部に勢力を広げ、その最盛期には九州六カ国の守護を兼ねるほどの力を持っていました。親次がいつ頃、どのようにして大友氏に仕えるようになったのか、詳しい記録は多くありませんが、彼は大友氏の拡大の過程において、武士としての道を歩み始めたと考えられます。

親次は、大友氏の重要な拠点の一つである岡城の城主を任されます。岡城は、豊後国と肥後国を結ぶ交通の要衝であり、周囲を険しい山々に囲まれた天然の要害でした。親次は、若くしてこの難攻不落の城の城主となり、大友氏の領土を守るための重要な役割を担うことになります。彼の心には、主君大友氏への忠誠心と、そしてこの岡城だけは絶対に渡さないという強い覚悟があったはずです。

岡城は、断崖絶壁の上に築かれた堅固な山城であり、「難攻不落」として知られていました。その堅固さから、後に滝廉太郎の「荒城の月」のモデルの一つになったとも言われています。

島津氏の脅威、迫りくる黒雲

島津氏が南九州から勢力を拡大し、肥後国を制圧すると、その矛先は大友氏が支配する豊後国へと向けられます。大友氏は、耳川の戦い(1578年)で島津氏に大敗し、その勢力は大きく衰退していました。島津氏の猛攻は止まらず、豊後国へと迫ってきました。

岡城は、島津氏が豊後国へと侵攻する上で、避けて通れない重要な拠点でした。島津家久率いる島津軍は、豊後国各地の城を次々と攻略し、岡城へと迫ってきました。親次は、迫りくる島津氏の脅威に対し、どのような覚悟を固めていたのでしょうか。大友氏が弱体化し、援軍も期待できない状況の中で、彼は寡兵で島津の大軍を相手に戦わなければなりませんでした。彼の心には、主君大友氏への忠誠心と、そして城兵や領民を守るという強い責任感が渦巻いていたはずです。

岡城籠城戦、難攻不落の伝説

天正十四年(1586年)、島津家久率いる島津軍が、満を持して岡城に攻め寄せました。島津軍は数万の大軍であり、対する岡城の兵力はわずか数千。誰もが落城を予想した絶望的な状況でした。しかし、志賀親次は、この窮地にあって、驚異的な粘り強さを見せます。

彼は、岡城の堅固な地形を最大限に活かし、巧みな戦術を用いて島津軍の猛攻を凌ぎました。城壁からの弓や鉄砲による攻撃、奇襲、そして偽りの情報を流すといった知略。親次は、島津軍を翻弄し、城攻めに手間取らせました。城兵たちもまた、主君親次を信じ、大友氏への忠誠心をもって必死に戦いました。親次自身も、最前線で兵を鼓舞し、城を守り抜こうと奮闘しました。数十日間にわたる激しい籠城戦の末、島津軍は岡城を落とすことができず、撤退せざるを得なくなりました。

志賀親次による岡城籠城戦は、「難攻不落の岡城」という伝説を生みました。寡兵で島津の大軍を退けた彼の武勇と采配は、多くの人々に賞賛されました。彼の心には、主君大友氏の期待に応えられたという安堵と、そして城と領民を守り抜いたことへの誇りがあったことでしょう。

九州征伐、そして時代の変化

志賀親次が岡城を守り抜いた直後、天下を掌握した豊臣秀吉は、島津氏の勢力拡大を阻止するため、九州征伐を開始します。秀吉の圧倒的な兵力の前に、島津氏は各地で敗れ、豊後国から撤退を余儀なくされました。岡城を攻めていた島津軍も撤退し、岡城は危機を脱しました。

豊臣秀吉の九州征伐は、九州地方の戦国時代の大きな転換点となりました。大友氏は秀吉に恭順の意を示しましたが、その勢力はかつてほどではありませんでした。親次が感じたであろう安堵。しかし同時に、天下人が変わるという時代の変化に対する思いもあったことでしょう。自らが命を懸けて守り抜いた岡城。その岡城が、今後は天下人の支配下に入るかもしれないという現実。

大友氏の改易、忠臣のその後

豊臣秀吉の時代、大友氏は改易されてしまいます。主家を失った志賀親次が、その後どのような道を辿ったのか、詳しい記録は多くありません。浪人となったのか、あるいは他の大名に仕えたのか。岡城を守り抜いた忠臣の、その後の人生は歴史の闇に包まれています。

もし彼が他の大名に仕えたとしても、長年仕えた大友氏への思いを忘れることはなかったでしょう。岡城を守り抜いた忠誠心と、主家滅亡という悲劇。彼の心には、深い傷が残されていたはずです。歴史の大きな流れに翻弄された一人の武将は、静かに、しかし確かにその人生を終えたのです。

「難攻不落」に込められた思い

志賀親次の生涯は、大友家臣として、岡城を島津氏の猛攻から守り抜き、「難攻不落」の伝説を築き上げた軌跡でした。困難な状況での奮戦、主家大友氏への揺るぎない忠誠心、そして歴史の大きな流れに翻弄された彼の人生。

「難攻不落」という言葉には、志賀親次の武勇と知略だけでなく、彼が城兵や領民を守ろうとした強い意志が込められています。彼は、自らが守るべきものへの深い愛情をもって、困難な戦いに立ち向かいました。彼の生涯は、戦国時代の武将の生き様、そして守るべきものへの思いがいかに尊いものであるかを私たちに教えてくれます。

岡城に刻まれた魂

志賀親次。大友家臣として、岡城を島津氏の猛攻から守り抜いた武将。彼の生涯は、私たちに、困難な状況にあっても諦めずに戦うこと、そして主家への忠誠心がいかに尊いものであるかを問いかけてきます。

難攻不落の岡城。その石垣には、志賀親次の武勇と、彼が城を守り抜こうとした魂が刻み込まれているかのようです。彼の生涯は、歴史の表舞台にはあまり大きく記されないかもしれませんが、岡城という場所に、そしてその伝説の中に、確かに息づいています。難攻不落の「牙」。志賀親次の物語は、時代を超えて私たちに語りかけてくるのです。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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